斎藤一の名言
誠義にあらず
会津戦争の敗北が濃厚になった時、土方は「会津に見切りをつけて転戦を続けるべき」と主張。しかし斎藤は「誠義にあらず」とその意見に反対しました。
斎藤にとっては勝利ではなく、恩のある会津藩に尽くす事が何よりも重要だった事が分かります。結果的に斎藤は土方と袂を分かち、会津郊外の如来堂でわずか13人で300人の新政府軍と戦いを続けたのでした。
どうもこの真剣での斬り合いというものは、敵がこう斬りこんで来たら、それをこう払っておいて、そのすきにこう斬りこんで行くなどという事は出来るものではなく、夢中になって斬り合うのです
晩年に刀での戦いについて問われた時に斎藤が残した言葉です。かつて桜田門外の変が起きた時、無我の境地にいた水戸藩士は味方同士で刀を交えた事が伝わっています。
「生きるか死ぬか」という局面では論理的な思考ではなく、闘争本能や剣術の優れた者が勝つ。それを斎藤は教えてくれているのです。
武士たる者は、玄関を出るときは頭から先に出るな、足から出よ、不意に斬りつけられた場合、頭をやられれば致命傷だが、足ならば倒れながらも相手を下から突き上げて殺すことができる
斎藤が子息である勉に言い聞かせてきた名言です。平和な世でも斎藤は武士の生き方を忘れませんでした。常に死と隣り合わせにいた斎藤だからこそ、重みのある言葉と言えます。
斎藤一の人物相関図
こちらは新撰組の組織図です。新撰組は京都の治安維持を担当する京都守護職の「会津藩預かり」として活動。後に幕臣に取り立てられます。
斎藤は三番隊隊長として頭角を現しますが、新撰組には一番から十番までの隊が存在しています。局長の近藤勇を始め、新撰組は個性豊かで魅力的な人物がたくさんいます。ぜひ他の新撰組の隊士についても興味を持ってくださいね。
【24年11月最新】新撰組をよく知れるおすすめ漫画ランキングTOP18
新撰組にまつわる逸話
逸話1「素顔が発覚したのは死後?」
斎藤の素顔は近年まで分かりませんでした。斎藤を写した写真がなかったからです。そんな中で「これは斎藤一だ」と主張する写真や肖像画が多く出回りました。
一番有名だったのがこちらの写真です。
かなり特徴的な顔ですが、こちらは斎藤の長男・勉の証言をもとに作られた肖像画です。るろうに剣心などの創作から斎藤を知った人は、この肖像画に戸惑ったとされます。
続いて出回ったのはこちらの写真。
こちらも特徴的な顔ですね。とある書籍の表紙にも使用されています。こちらの写真の方が「まだ斎藤のイメージに近い」と感じた人もいたようです。
結果的に「斎藤の本当の写真」が発見されたのは2015年秋の事でした。その写真は冒頭に載せた写真です。写真は明治30年(1897年)のもので、その顔は「死線をくぐり抜けた男」そのものでした。勉の証言に基づいた肖像画も目元は近い気もします。
死後100年が経ち、斎藤の素顔はようやく判明したのでした。
逸話2「るろうに剣心に登場!牙突は実際の技がモデル」
謎の多い生涯から斎藤は様々な創作に登場しています。その中で最も有名なのが「るろうに剣心」に登場する斎藤一でしょう。
作中の斎藤は己の信念である「悪・即・斬」を貫き、剣心のライバル的存在として描かれています。完全に創作のキャラクターですが、やはり作者の和月伸宏も史実の斎藤一を多少なりとも参考にしています。
そんな斎藤の必殺技が「牙突」です。これは刀をビリヤードのキューを構えたような姿勢で標的を貫くもの。牙突はるろうに剣心の創作ですが、モデルは史実の斎藤の得意技である「左片手一本突き」。
新撰組は突き技を重要視していましたが、それは一突きで急所を仕留められるからです。牙突は真似しやすく、インパクトの高さから、多くの少年が真似をしました。今でも、るろうに剣心の斎藤一といえば、牙突をイメージする人が多いかもしれません。
逸話3「剣術は晩年も衰えなかった」
斎藤の剣術は晩年になっても衰える事はありませんでした。それを裏付けるエピソードがあります。それは大正から昭和にかけて名を馳せた剣術家・山本忠次郎が出会った「謎の老人」です。
明治末、山本は木に吊るした空き缶を竹刀で突く練習をしていました。すると「とある老人」が現れます。そして山本の竹刀で空き缶を揺れる事なく貫通させる離れ業を見せたのです。
その後も老人は山本に「突き技は突く動作よりも引く動作、構えを素早く元になおす動作の方が大切」とアドバイスしています。山本は最後までその老人が誰か分からなかったものの、斎藤と山本はその頃は同じ町内に住んでいました。
果たしてその老人が斎藤だったのか。今となっては分かりません。