1867〜1868年 – 24〜25歳「戊辰戦争」
鳥羽伏見の戦いと甲州勝沼の戦い
油小路事件から2ヶ月後、新政府軍と旧幕府軍による内戦である戊辰戦争が勃発。戊辰戦争の始まりは慶応4年(1868年)1月3日に始まった「鳥羽伏見の戦い」でした。
新撰組は新政府軍の保有する近代兵器と相性は悪く、新撰組隊士20名程が戦死。更に総大将の徳川慶喜は敵前逃亡し、士気の低下した隊士達が相次いで脱走したのです。
残りの新撰組は「新政府軍の甲府進軍を阻止する任務」を与えられ「甲陽鎮撫隊」と名を変えます。しかし3月6日の「甲州勝沼の戦い」で新政府軍の板垣退助率いる迅衝隊に敗北。この時も斎藤は最前線で戦っています。
続出する脱落者
土方ら新撰組の幹部数名は江戸に戻るものの、永倉新八、原田左之助ら古参隊士は意見の相違から3月11日に離脱。近藤や土方は再帰を図る為、流山(現・千葉県流山市)に転戦するものの、近藤は4月3日に新政府軍に包囲され出頭します。
この頃には沖田総司も肺結核で離脱。主要な幹部は斎藤と土方くらいになっていました。ちなみに斎藤は江戸に戻らず、土方に新撰組の面々を託されて会津方面に転戦。この頃に斎藤は「一瀬伝八」を名乗っています。
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1868年 – 25歳「会津戦争」
新撰組の指揮を執る
斎藤ら新撰組の生き残りは会津藩の指揮下に入り、閏4月5日の白河口の戦い、8月21日の母成峠の戦いに参加。いずれも新政府軍の勝利に終わりました。ただ斎藤は勇敢無比なる戦い振りを見せたと「会津戊辰戦史」に記録されています。
やがて戦線に復帰した土方も会津戦争に合流するものの、戦局は変わりませんでした。会津戦争の敗北が濃厚になる中、土方は仙台方面へ転戦しますが、斎藤は会津に残る事を決めました。二人は袂を分かったのです。
斎藤の戦いの終わり
斎藤はその後も勇敢に戦うものの、9月22日に会津藩は降伏。斎藤も10月8日に松平容保の親書を経て降伏を決断しました。この時、共に戦った会津藩の家老・佐川官兵衛は号泣したと伝わります。
斎藤は捕虜となった会津藩士と共に、謹慎生活を送りました。戊辰戦争は翌年の明治2年(1869年)5月の箱館戦争まで続き、土方はこの地で戦死しています。
1869〜1874年 – 26〜31歳「津南藩へ渡る」
津南藩へ渡る
当初は会津松平家は会津戦争の責任を取り、家名断絶となりました。しかし明治2年(1869年)11月3日に斗南藩として、お家再興を許されます。
ただ石高は会津藩28万石から大幅に減らされた3万5千石。斗南藩は厳寒不毛の地である青森県東部だった為、実際の石高は7380石に過ぎませんでした。斗南藩の生活は厳しく、冬を越せない人もいたそうです。
2度の結婚
謹慎を許された斎藤は斗南藩士として斗南藩に移住。同じく斗南藩に移住した会津藩の名家の娘、篠田やそと結婚しています。
ただ「やそ」との結婚生活は詳しく分かりません。斎藤は明治7年(1874年)3月17日に元会津藩の大目付・高木小十郎の娘・時尾と再婚しているからです。時尾との結婚の時の上仲人を務めたのは松平容保、下仲人を務めたのは佐川官兵衛でした。
斎藤は前述した通り、時尾との間に3人の子をもうけます。長男の勉は陸軍少佐、次男の剛は貿易商、三男の龍雄は弁護士になりました。また時尾と結婚した時、斎藤は時尾の母方の姓である藤田姓を名乗り、「藤田五郎」と名を変えています。
1875〜1893年 – 32〜50歳「西南戦争と警察官」
西南戦争
時尾と結婚してから3ヶ月後、斎藤は東京に移住しています。警察官として勤務しました。やがて明治10年(1877年)2月に西南戦争が勃発すると、斎藤は警部補に昇進。そして5月に斎藤は警視隊二番小隊半隊長として西南戦争に従軍したのです。
斎藤は前述した通り目覚ましい活躍を見せました。斎藤が西南戦争に従軍したのは会津藩の仇を討つ目的もあったとされます。この戦争で佐川官兵衛は戦死する等、犠牲を伴ったものでもありました。
警察官として職務を全うする
戦後の明治12年(1879年)10月8日、斎藤は西南戦争の功績が認められ、青色桐葉章という勲章と賞金を授与。その後、警視庁が設置されると斎藤は巡査部長に就任。
また警視庁名簿原本によると、斎藤は「書記兼戸口取調掛」を務めていましたが、そのような役職は警視庁には存在しません。そのため、斎藤は新撰組の頃のように、警視庁内でスパイ活動を行なっていたと推測されています。
その後斎藤は明治25年(1892年)12月まで警察官としての職務を全うしました。
1894〜1909年 – 51〜66歳「退職後も様々な仕事に就く」
警視庁退職後の斎藤
明治27年(1894年)4月、斎藤は元会津藩士の高嶺秀夫の推薦で、東京高等師範学校附属東京教育博物館の守衛長に奉職しています。ここで斎藤は学校の撃剣師範となり、生徒に剣術を教えました。
また頼まれてもいないのに、雨の日には人力車の交通整備を担当する等、仕事に熱心だった様子が伺えます。その後斎藤は明治32年(1899年)に退職。今度は東京女子高等師範学校の庶務掛として勤務しています。
真面目な斎藤ですが、晩年まで大の酒豪でした。普段は無口ですが、元会津藩士達と酒を飲むと戊辰戦争の話をするのが常でした。年月が流れても新撰組の頃の記憶は残り続けたのですね。その後、斎藤は明治42年(1909年)に師範学校を退職しています。
1910〜1915年 – 67〜72歳「斎藤一死去」
斎藤一死去
斎藤は長年の飲酒がたたり、晩年は胃潰瘍に悩まされていました。斎藤は床に伏せる事が増えて行ったのです。
大正4年(1915年)9月28日、死期を悟った斎藤は家族に支えてもらい、床の間で正座をとりました。午前1時をまわる頃、斎藤は目を見開いて絶命。72歳の大往生を遂げたのでした。