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斎藤一とはどんな人?生涯・年表まとめ【愛刀や子孫、功績も紹介】

斎藤一は新撰組の三番隊隊長を務め、組内で最強の剣士の一人と謳われた人物です。その腕前は「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と評される等、現在でも高く評価されています。斎藤は新撰組の隊長として多くの活動に関与した他、戊辰戦争では旧幕府軍として新政府軍と戦い、明治維新後は警察官となりました。

53歳の頃の斎藤一
出典:Wikipedia

とはいえ、「るろうに剣心」に登場するなど高い知名度がある一方、生まれや経歴は不明な事も多いでしょう。近年では「斎藤一」の顔写真が判明する等、少しずつ素性も明らかになってきました。今回は新撰組を敬愛する筆者が、斎藤一の知られざる素顔や経歴に迫っていきたいと思います。

斎藤一とはどんな人物か

名前斎藤一 (藤田五郎など)
誕生日天保15年(1844年)1月1日
没日大正4年(1915年)9月28日
生地江戸
没地東京市本郷区(現・文京区)
配偶者篠田やそ(先妻)
高木時尾(後妻)
埋葬場所阿弥陀寺(現・福岡県会津若松市)

斎藤一の生涯をハイライト

新撰組の隊旗
出典:Wikipedia
  • 天保15年(1844年) 斎藤一誕生
  • 文久3年(1863年)新撰組に入隊し、三番隊隊長になる
  • 元治元年(1864年)池田屋事件
  • 慶応3年(1867年) 御陵衛士入隊 油小路事件
  • 慶応4年(1868年) 戊辰戦争で各地を転戦
  • 明治2年(1869年)戊辰戦争終結 斎藤は斗南藩領の五戸に移住
  • 明治7年(1874年)東京に移住し警察官となる
  • 明治10年(1877年) 西南戦争に明治政府側として参戦
  • 明治25年(1892年)警察官を退官
  • 大正4年(1915年) 死去(享年72歳)

謎多き新撰組の3番隊隊長

新撰組の屯所だった八木邸
出典:Wikipedia

斎藤は謎多き新撰組の隊員の中でも特に謎に包まれています。斎藤が新撰組の前身・壬生浪士組に入隊したのは文久3年(1863年)です。間もなく新撰組が発足されると斎藤は最年少で幹部の副長助勤に就任。後に三番隊隊長を務めました。

新撰組は京都の治安維持に活躍。斎藤は池田屋事件の応戦に関与し、新撰組内部の粛清役を数多く務めています。後に新撰組参謀の伊東甲子太郎が新撰組と「分離」して御陵衛士を結成。その時に斎藤は御陵衛士に入隊しています。

これは新撰組と袂を分かったのではなく、御陵衛士のスパイとして活動する為です。後に斎藤は新撰組に復帰し、御陵衛士の方針などを新撰組に報告。後に伊東は新撰組に暗殺され、斎藤は終生「裏切り者」の汚名を被る事になります。

戊辰戦争の変遷(斎藤は会津戦争まで参戦)
出典:Wikipedia

やがて旧幕府軍と新政府軍との間で戊辰戦争が勃発した時、斎藤は旧幕府軍として参戦。鳥羽伏見の戦いや会津戦争を最前線で戦います。

斎藤は仙台に転戦した旧幕府軍と異なり会津に残留。最後まで新政府軍に抵抗を続けました。会津藩が新政府軍に降伏後、斎藤は会津藩主・松平容保の説得により投獄。斎藤は最後まで幕府に忠義を尽くしたのです。

新撰組とは?成り立ちや活動内容、主要メンバーを解説【組織図付き】

愛刀は「鬼神丸国重(きじんまるくにしげ)」

斎藤一の愛刀は鬼神丸国重(きじんまるくにしげ)とされます。情報源は京都の壬生の刀研ぎ師である源龍斎俊永による「会津守護職様御預新撰組御一等様御刀改控」ここに新撰組32人の刀の銘と状態が克明に記されており、斎藤の刀は以下の通り。

摂州住池田鬼神丸国重 二尺三寸一分 刃毀レ小サク無数

摂州とは現在の大阪府池田市付近であり、池田鬼神丸国重とは江戸時代中期に活躍した刀匠です。この刀は天和二年(1682年)に作られたもので、二尺三寸一分は現在の単位では70cmほど。鍔や柄を含めれば約1mと推測出来ます。

この記録は池田屋事件の2日後のもの。無数の刃こぼれは激しい戦闘で生じたものでしょうか。池田屋事件は1864年であり、斎藤がなぜ180年前の鬼神丸国重を所有していたのかは不明です。ちなみに鬼神丸国重は現存しません。

また斎藤が鬼神丸国重を本当に所有していたか近年では疑問視されています。新撰組局長の近藤勇は「大坂の刀工の刀は用いるな」と述べており、大阪の刀は実用性に欠けていたともされます。斎藤は素性だけでなく、刀についても謎に包まれているのです。

死因は胃潰瘍?正座をしたまま大往生を遂げる

斎藤は正座をしたまま亡くなった(画像は徳川慶喜
出典:Wikipedia

斎藤は大正4年(1915年)9月28日に72歳で死去します。死因は胃潰瘍でした。明治時代を迎え、斎藤は斗南藩に移住。明治7年(1874年)に東京に移住して警察官となりました。

ただ平和な時代にあっても斎藤は武士の矜持を忘れませんでした。質素倹約を常とし(豪快なエピソードもありますが)、帯を結ぶ時はだらしなく巻く事はありませんでした。

胃潰瘍による衰弱で死期を悟った時、斎藤は妻や嫁に床の間まで連れ出してもらいます。そして正座のまま亡くなりました。正座は文字通り「正しい座り方」であり、武士の礼儀作法に則ったもの。斎藤は最期まで武士の生き方を追求したのです。

墓所は会津若松の阿弥陀寺

阿弥陀寺にある斎藤の墓
出典:Wikipedia

斎藤の墓は福島県会津若松市の阿弥陀寺にあります。斎藤が東京に移住したのは明治7年(1874年)。その後も斎藤は東京に住み続けています。斎藤の墓が福島にあるのは「斎藤の遺言」が理由です。

斎藤は生前に「阿弥陀寺に埋葬してほしい」と言い遺しています。阿弥陀寺は戊辰戦争で戦没した会津藩士の墓がある場所。斎藤の願いは叶えられたのです。

新撰組は会津藩藩主だった京都守護職・松平容保のお預かり、つまり「京都守護職の部下」として登用されました。後に斎藤が会津戦争を戦い抜いたのも、会津藩ひいては松平容保への忠義の為でした。

斎藤は戊辰戦争から50年近くが経っても旧恩を忘れず志を貫きました。斎藤の生き様は多くの人達の心を打ち、阿弥陀寺を訪れる人は後を絶ちません。皆さんも機会があれば是非とも訪れて欲しい場所ですね。

斎藤一に子孫はいるの?

斎藤一は明治7年(1874年)3月17日に会津藩の重役の娘・時尾と結婚(結婚自体は二回目)。勉・剛・龍雄の3人の男児を授かっています。晩年には勉の子も生まれ、斎藤はおじいちゃんになっていたのです。

また斎藤の子孫は現在も絶える事なく続いています。現在は斎藤のひ孫にあたる「藤田太郎さん」が存命です。藤田さんはあまり表に出る事を好まれない為、詳しい経歴は不明です。

2017年3月18日に新選組発足の地・東京都日野市の高幡不動尊で「新選組隊士及関係者尊霊 150回忌総供養祭」が開催されました。この時に斎藤一の子孫の他、近藤以外や土方歳三、沖田総司等の名だたる隊士の遺族が集結しています。

ちなみに2018年に斎藤一の子孫を名乗る人物が「『斎藤一』の子孫だけどFGOでご先祖様出た」とツイートし話題になりました。FGOとはスマホ向けのRPGであり、斎藤一もキャラクターとして登場しています。

インパクトのあるツイートですが、どこまで真実かは不明です。名字が違うと述べているあたり、信憑性は高いと個人的には思いますが。

斎藤一の功績

功績1「新撰組として京都の治安維持に努める」

池田屋事件の跡地
出典:Wikipedia

斎藤は幕末に新撰組の隊員として活躍しています。新撰組は京都の治安維持を目的に結成された組織であり、慶応3年(1867年)には幕臣となりました。当時の京都は徳川幕府を倒そうとする志士が集まり、治安が非常に悪かったのです。

新撰組の最大の功績は元治元年(1864年)の池田屋事件です。「京都大火計画」を計画し、池田屋に潜伏していた尊王攘夷派の志士達を、新撰組は襲撃します。新撰組は京都が火の海になる事を未然に防ぎました。

池田屋を襲撃したのは近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4人。斎藤は後から池田屋に合流した為、詳しい行動は不明です。池田屋事件で新撰組の名前が京都内に轟いたのは事実で、これ以降は新撰組の入隊人数が増加します。

ただ尊王攘夷派の志士が計画した「京都大火計画」も新撰組による捏造説もあります。それが事実なら新撰組の功績もかなり疑わしくなるのは事実です。実は新撰組の最大の功績は、歴史小説の題材として幕末人気に火をつけた事なのかもしれません。

功績2「戊辰戦争を最前線で戦う」

鳥羽伏見の戦い
出典:Wikipedia

斎藤は旧幕府軍と新政府軍との戦いである戊辰戦争を最前線で戦い続けました。戊辰戦争の初戦は慶応4年(1868年)1月3日、現在の京都市文京区で起きた「鳥羽伏見の戦い」です。新撰組は旧幕府軍として参戦するも、新政府軍の勝利に終わります。

斎藤は3月29日に現在の山梨県甲州市で起きた「甲州勝沼の戦い」にも参戦するものの、こちらも新政府軍の勝利に終わります。斎藤は閏4月20日から現在の福島県で勃発した会津戦争に参戦。文字通り命を懸けて戦い抜きました。

土方歳三らが箱館まで転戦する中、斎藤は会津に残り会津藩士と新政府軍への抵抗を続けています。会津戦争で会津藩が降伏したのは9月2日。しかし斎藤と一部の会津藩士は最後まで抵抗を続けています。

斎藤が降伏したのは10月8日。松平容保の親書で降伏を打診された為です。斎藤は最後まで会津藩、ひいては徳川幕府に忠義を貫いたのでした。

下の記事では、戊辰戦争について詳しく解説しているので、良ければ参考にしてください。

戊辰戦争とは?原因や流れ、主要人物を分かりやすく解説【年表付き】

功績3「警察官として西南戦争の鎮圧にあたる」

西南戦争暴徒出陣図
出典:Wikipedia

明治10年(1877年)2月に西南戦争が勃発すると、斎藤は5月18日に戦争の渦中である九州へ派遣されました。斎藤は明治7年(1874年)に東京に移住し、警察官となっていました。

西南戦争は、西郷隆盛を盟主にした旧薩摩藩士による士族反乱。斎藤は「豊後口の戦闘」に参戦し、敵に斬り込みをかけて大砲2門を奪う等の活躍を見せます。斎藤の活躍は新聞にも報道され、その名を轟かせたのです。

西南戦争は明治政府側の勝利に終わりますが、決して優勢ではありませんでした。激戦となった「田原坂の戦い」で帝国陸軍の死傷者は続出。これは帝国陸軍の兵の多くは徴兵された平民だった事、西郷軍は士族が中心だった事も大きいのです。

斎藤は選りすぐりの精鋭として申し分ない活躍を見せました。西南戦争における帝国陸軍の勝利は、斎藤達の功績も大きいのです。

斎藤一の名言

誠義にあらず

会津戦争の敗北が濃厚になった時、土方は「会津に見切りをつけて転戦を続けるべき」と主張。しかし斎藤は「誠義にあらず」とその意見に反対しました。

斎藤にとっては勝利ではなく、恩のある会津藩に尽くす事が何よりも重要だった事が分かります。結果的に斎藤は土方と袂を分かち、会津郊外の如来堂でわずか13人で300人の新政府軍と戦いを続けたのでした。

どうもこの真剣での斬り合いというものは、敵がこう斬りこんで来たら、それをこう払っておいて、そのすきにこう斬りこんで行くなどという事は出来るものではなく、夢中になって斬り合うのです

晩年に刀での戦いについて問われた時に斎藤が残した言葉です。かつて桜田門外の変が起きた時、無我の境地にいた水戸藩士は味方同士で刀を交えた事が伝わっています。

「生きるか死ぬか」という局面では論理的な思考ではなく、闘争本能や剣術の優れた者が勝つ。それを斎藤は教えてくれているのです。

武士たる者は、玄関を出るときは頭から先に出るな、足から出よ、不意に斬りつけられた場合、頭をやられれば致命傷だが、足ならば倒れながらも相手を下から突き上げて殺すことができる

斎藤が子息である勉に言い聞かせてきた名言です。平和な世でも斎藤は武士の生き方を忘れませんでした。常に死と隣り合わせにいた斎藤だからこそ、重みのある言葉と言えます。

斎藤一の人物相関図

新撰組の組織図
出典:宝塚歌劇 Official WebSite

こちらは新撰組の組織図です。新撰組は京都の治安維持を担当する京都守護職の「会津藩預かり」として活動。後に幕臣に取り立てられます。

斎藤は三番隊隊長として頭角を現しますが、新撰組には一番から十番までの隊が存在しています。局長の近藤勇を始め、新撰組は個性豊かで魅力的な人物がたくさんいます。ぜひ他の新撰組の隊士についても興味を持ってくださいね。

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