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斎藤一とはどんな人?生涯・年表まとめ【愛刀や子孫、功績も紹介】

新撰組にまつわる逸話

逸話1「素顔が発覚したのは死後?」

2015年に発見された斎藤一の写真
出典:Wikipedia

斎藤の素顔は近年まで分かりませんでした。斎藤を写した写真がなかったからです。そんな中で「これは斎藤一だ」と主張する写真や肖像画が多く出回りました。

一番有名だったのがこちらの写真です。

かなり特徴的な顔ですが、こちらは斎藤の長男・勉の証言をもとに作られた肖像画です。るろうに剣心などの創作から斎藤を知った人は、この肖像画に戸惑ったとされます。

続いて出回ったのはこちらの写真。

斎藤の肖像画2
出典:セブンネットショッピング

こちらも特徴的な顔ですね。とある書籍の表紙にも使用されています。こちらの写真の方が「まだ斎藤のイメージに近い」と感じた人もいたようです。

結果的に「斎藤の本当の写真」が発見されたのは2015年秋の事でした。その写真は冒頭に載せた写真です。写真は明治30年(1897年)のもので、その顔は「死線をくぐり抜けた男」そのものでした。勉の証言に基づいた肖像画も目元は近い気もします。

死後100年が経ち、斎藤の素顔はようやく判明したのでした。

逸話2「るろうに剣心に登場!牙突は実際の技がモデル」

謎の多い生涯から斎藤は様々な創作に登場しています。その中で最も有名なのが「るろうに剣心」に登場する斎藤一でしょう。

作中の斎藤は己の信念である「悪・即・斬」を貫き、剣心のライバル的存在として描かれています。完全に創作のキャラクターですが、やはり作者の和月伸宏も史実の斎藤一を多少なりとも参考にしています。

そんな斎藤の必殺技が「牙突」です。これは刀をビリヤードのキューを構えたような姿勢で標的を貫くもの。牙突はるろうに剣心の創作ですが、モデルは史実の斎藤の得意技である「左片手一本突き」。

新撰組は突き技を重要視していましたが、それは一突きで急所を仕留められるからです。牙突は真似しやすく、インパクトの高さから、多くの少年が真似をしました。今でも、るろうに剣心の斎藤一といえば、牙突をイメージする人が多いかもしれません。

逸話3「剣術は晩年も衰えなかった」

斎藤の腕前は晩年も衰えず
出典:Wikipedia

斎藤の剣術は晩年になっても衰える事はありませんでした。それを裏付けるエピソードがあります。それは大正から昭和にかけて名を馳せた剣術家・山本忠次郎が出会った「謎の老人」です。

明治末、山本は木に吊るした空き缶を竹刀で突く練習をしていました。すると「とある老人」が現れます。そして山本の竹刀で空き缶を揺れる事なく貫通させる離れ業を見せたのです。

その後も老人は山本に「突き技は突く動作よりも引く動作、構えを素早く元になおす動作の方が大切」とアドバイスしています。山本は最後までその老人が誰か分からなかったものの、斎藤と山本はその頃は同じ町内に住んでいました。

果たしてその老人が斎藤だったのか。今となっては分かりません。

斎藤一の生涯年表

斎藤一は生涯に何度も改名しています。解説する際にはややこしいので、今回は表記を「斎藤一」に統一しますね。

1844〜1861年 – 0〜18歳「斎藤一誕生」

弘化年間(1844年-1848年)改訂江戸図
出典:Wikipedia

斎藤一誕生

斎藤は天保15年(1844年)1月1日に山口右助の次男として誕生します。江戸で生まれたとされますが、詳しい経歴は不明です。

幼少期の斎藤は「山口一」と名乗りました。子孫の伝承によると名前の由来は斎藤の誕生日が理由との事ですが、こちらも詳しくは不明です。

斎藤一の家族

ちなみに父と右助は明石出身ですが、江戸に下り旗本・則定鈴木家の御家人になったとされます。

斎藤の兄・山口廣明は明治に大蔵省の役人となり、裁判所に勤務。姉の勝は後に水戸藩の藩医に嫁ぎました。幼少期の斎藤は家族と慎ましく暮らしていたのではないでしょうか。

1862年 – 19歳「人を斬って京都へ逃れる」

近藤勇が開いていた試衛館道場の跡地
出典:Wikipedia

人を斬る

斎藤は19歳の時に旗本と口論になり、その人物を斬り殺してしまいます。右助や廣明は斎藤の犯行が明るみに出ないよう、斎藤に京都に行くように命じました。

斎藤が頼ったのは吉田某という右助の友人。彼は京都で吉田道場を開いていた人物でした。斎藤は吉田道場で頭角を現し、師範代に登りつめました。斎藤はこの時に素性を隠す為、山口一から「斎藤一」に名を変えています。

近藤勇との接点は?

その一方で文久3年(1863年)正月に江戸幕府は「浪士組」の参加者を募っています。これは14代将軍・家茂が上洛する際に家茂の警護をする組織であり、清河八郎という人物が発案したものでした。

試衛館(江戸にあった天然理心流剣術の道場)の近藤勇ら8人は浪士組の参加を決意し、2月に京都に向かいます。

新撰組二番隊隊長・永倉新八の「浪士文久報国記事」によれば、斎藤は試衛館に出入りしていたと書かれています。しかし斎藤は19歳の頃から京都にいた為、真偽は不明です。※京都に行く前に近藤らと関わりを持っていた可能性はあります。

1863年 – 20歳「壬生浪士組と新撰組」

浪士組の発案者・清河八郎
出典:Wikipedia

壬生浪士組結成

さて2月23日に近藤勇ら浪士組200余名は京都に到着。ただ浪士組の発案者・清河八郎が浪士組全員の署名が記された建白書を朝廷に提出してしまいます。清河は浪士組を幕府から切り離し、尊王活動に利用しようとしたのです。

この行動に近藤勇らは「将軍の警備を全うすべき」と反発し、清河らと袂を分かちます。浪士組の多くは江戸に帰還するものの、近藤勇ら13名は3月10日に新たに「壬生浪士組」を結成しました。同日に斎藤一を含めた11人が加入したのです。

「壬生浪士組」は会津藩藩主で京都守護職の任にあった松平容保の「お預かり」という立場に置かれます。壬生浪士達は身なりの貧しさから「身ぼろ」と京の人達に揶揄されていました。

新撰組発足

京都における徳川幕府の拠点 二条城
出典:Wikipedia

斎藤達は力士と乱闘騒ぎを起こすなど、チンピラまがいの事をしつつも、京都の治安維持の任務をこなしていきました。そんな新撰組は8月18日に起きた「八月十八日の政変」で京都の警備をした事が高く評価されます。

八月十八日の政変は「薩摩藩や会津藩が、過激な攘夷を掲げる長州藩と尊王攘夷派の公家を京都から追い出した」ものです。この政変を経て壬生浪士組は新たな隊名「新選組」を拝命。ようやく新撰組が誕生しました。

1863〜1864年 – 20〜21歳「池田屋事件と禁門の変」

禁門の変
出典:Wikipedia

池田屋事件と禁門の変

新撰組は元治元年(1864年)6月5日の池田屋事件でその名を轟かせます。斎藤は突入した近藤勇の部隊ではなく、後から合流した土方歳三の部隊に所属。その時にどのようや行動を取っていたかは不明です。

7月19日に京都で巻き返しを図る長州藩と、会津藩や薩摩藩を中心とする幕府勢力による武力衝突事件「禁門の変」が勃発。

斎藤ら新撰組も200名ほどが参戦しています。ただこの時の新撰組は後手に回る事が多く、これといった活躍は出来ていません。

1864〜1866年 – 21〜23歳「新撰組が台頭する」

新撰組局長の近藤勇
出典:Wikipedia

隊員募集の為に江戸に行く

池田屋事件と禁門の変を経て新撰組には200両あまりの恩賞が下賜されます。斎藤は9月に土方歳三や藤堂平助などの幹部と江戸へスカウトに行きました。斎藤らは伊東甲子太郎らの一派を連れ、32名の大所帯となり帰還します。

新撰組の中で頭角を表す

斎藤は新撰組の中で頭角を現しました。1864年12月の幹部編成の際には四番組隊長に就任。1865年4月には三番隊隊長に就任しています。斎藤は新撰組の中でも最強の一角だったのです。

やがて新撰組は200名を超える大所帯となります。ただ新撰組は規律に厳しく「内部粛清された隊士」は実に40人。理由は脱走や裏切りなど様々です。斎藤は組内の粛清役を担っていたとされ、武田観柳斎、谷三十郎の暗殺に関与したとされます。

1867年 – 24歳「御陵衛士に入隊」

伊藤甲子太郎
出典:Wikipedia

伊東甲子太郎の裏切り

慶応3年(1867年)3月、意見の相違が続いていた伊東甲子太郎が、新撰組から「分離」を果たします。伊東は御陵衛士という孝明天皇の陵を守る組織を立ち上げ離脱。斎藤を含めた15人が新撰組を離脱しました。

ただ斎藤が離脱した理由は「伊東の行動を探る新撰組側のスパイ」だったからです。斎藤は伊東らが「近藤勇の暗殺」を計画している事、「江戸幕府と敵対する長州藩に寛大な処置を望んでいる事」を突き止めました。

油小路事件

伊東甲子太郎殉難の地碑
出典:Wikipedia

斎藤の意見をもとに近藤勇らは伊東の暗殺を決意。11月18日、近藤は「金策や国事の相談」という名目で妾宅に伊東らを招き、宴会を開きます。帰路に伊東は新撰組の隊士により暗殺されたのです(油小路事件)。

斎藤は油小路事件の前に御陵衛士を離脱し、新撰組に復帰。この時に御陵衛士の活動資金を持ち逃げしており、金に困って逃げたように見せかけたのです。ちなみにこの年に斎藤は「山口二郎」と名を変えています。

1867〜1868年 – 24〜25歳「戊辰戦争」

甲州勝沼の戦いの様子
出典:Wikipedia

鳥羽伏見の戦いと甲州勝沼の戦い

油小路事件から2ヶ月後、新政府軍と旧幕府軍による内戦である戊辰戦争が勃発。戊辰戦争の始まりは慶応4年(1868年)1月3日に始まった「鳥羽伏見の戦い」でした。

新撰組は新政府軍の保有する近代兵器と相性は悪く、新撰組隊士20名程が戦死。更に総大将の徳川慶喜は敵前逃亡し、士気の低下した隊士達が相次いで脱走したのです。

残りの新撰組は「新政府軍の甲府進軍を阻止する任務」を与えられ「甲陽鎮撫隊」と名を変えます。しかし3月6日の「甲州勝沼の戦い」で新政府軍の板垣退助率いる迅衝隊に敗北。この時も斎藤は最前線で戦っています。

続出する脱落者

土方ら新撰組の幹部数名は江戸に戻るものの、永倉新八、原田左之助ら古参隊士は意見の相違から3月11日に離脱。近藤や土方は再帰を図る為、流山(現・千葉県流山市)に転戦するものの、近藤は4月3日に新政府軍に包囲され出頭します。

この頃には沖田総司も肺結核で離脱。主要な幹部は斎藤と土方くらいになっていました。ちなみに斎藤は江戸に戻らず、土方に新撰組の面々を託されて会津方面に転戦。この頃に斎藤は「一瀬伝八」を名乗っています。

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1868年 – 25歳「会津戦争」

降伏直後の会津若松城
出典:Wikipedia

新撰組の指揮を執る

斎藤ら新撰組の生き残りは会津藩の指揮下に入り、閏4月5日の白河口の戦い、8月21日の母成峠の戦いに参加。いずれも新政府軍の勝利に終わりました。ただ斎藤は勇敢無比なる戦い振りを見せたと「会津戊辰戦史」に記録されています。

やがて戦線に復帰した土方も会津戦争に合流するものの、戦局は変わりませんでした。会津戦争の敗北が濃厚になる中、土方は仙台方面へ転戦しますが、斎藤は会津に残る事を決めました。二人は袂を分かったのです。

斎藤の戦いの終わり

斎藤はその後も勇敢に戦うものの、9月22日に会津藩は降伏。斎藤も10月8日に松平容保の親書を経て降伏を決断しました。この時、共に戦った会津藩の家老・佐川官兵衛は号泣したと伝わります。

斎藤は捕虜となった会津藩士と共に、謹慎生活を送りました。戊辰戦争は翌年の明治2年(1869年)5月の箱館戦争まで続き、土方はこの地で戦死しています。

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