斎藤一とはどんな人?生涯・年表まとめ【愛刀や子孫、功績も紹介】

死因は胃潰瘍?正座をしたまま大往生を遂げる

斎藤は正座をしたまま亡くなった(画像は徳川慶喜
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斎藤は大正4年(1915年)9月28日に72歳で死去します。死因は胃潰瘍でした。明治時代を迎え、斎藤は斗南藩に移住。明治7年(1874年)に東京に移住して警察官となりました。

ただ平和な時代にあっても斎藤は武士の矜持を忘れませんでした。質素倹約を常とし(豪快なエピソードもありますが)、帯を結ぶ時はだらしなく巻く事はありませんでした。

胃潰瘍による衰弱で死期を悟った時、斎藤は妻や嫁に床の間まで連れ出してもらいます。そして正座のまま亡くなりました。正座は文字通り「正しい座り方」であり、武士の礼儀作法に則ったもの。斎藤は最期まで武士の生き方を追求したのです。

墓所は会津若松の阿弥陀寺

阿弥陀寺にある斎藤の墓
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斎藤の墓は福島県会津若松市の阿弥陀寺にあります。斎藤が東京に移住したのは明治7年(1874年)。その後も斎藤は東京に住み続けています。斎藤の墓が福島にあるのは「斎藤の遺言」が理由です。

斎藤は生前に「阿弥陀寺に埋葬してほしい」と言い遺しています。阿弥陀寺は戊辰戦争で戦没した会津藩士の墓がある場所。斎藤の願いは叶えられたのです。

新撰組は会津藩藩主だった京都守護職・松平容保のお預かり、つまり「京都守護職の部下」として登用されました。後に斎藤が会津戦争を戦い抜いたのも、会津藩ひいては松平容保への忠義の為でした。

斎藤は戊辰戦争から50年近くが経っても旧恩を忘れず志を貫きました。斎藤の生き様は多くの人達の心を打ち、阿弥陀寺を訪れる人は後を絶ちません。皆さんも機会があれば是非とも訪れて欲しい場所ですね。

斎藤一に子孫はいるの?

斎藤一は明治7年(1874年)3月17日に会津藩の重役の娘・時尾と結婚(結婚自体は二回目)。勉・剛・龍雄の3人の男児を授かっています。晩年には勉の子も生まれ、斎藤はおじいちゃんになっていたのです。

また斎藤の子孫は現在も絶える事なく続いています。現在は斎藤のひ孫にあたる「藤田太郎さん」が存命です。藤田さんはあまり表に出る事を好まれない為、詳しい経歴は不明です。

2017年3月18日に新選組発足の地・東京都日野市の高幡不動尊で「新選組隊士及関係者尊霊 150回忌総供養祭」が開催されました。この時に斎藤一の子孫の他、近藤以外や土方歳三、沖田総司等の名だたる隊士の遺族が集結しています。

ちなみに2018年に斎藤一の子孫を名乗る人物が「『斎藤一』の子孫だけどFGOでご先祖様出た」とツイートし話題になりました。FGOとはスマホ向けのRPGであり、斎藤一もキャラクターとして登場しています。

インパクトのあるツイートですが、どこまで真実かは不明です。名字が違うと述べているあたり、信憑性は高いと個人的には思いますが。

斎藤一の功績

功績1「新撰組として京都の治安維持に努める」

池田屋事件の跡地
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斎藤は幕末に新撰組の隊員として活躍しています。新撰組は京都の治安維持を目的に結成された組織であり、慶応3年(1867年)には幕臣となりました。当時の京都は徳川幕府を倒そうとする志士が集まり、治安が非常に悪かったのです。

新撰組の最大の功績は元治元年(1864年)の池田屋事件です。「京都大火計画」を計画し、池田屋に潜伏していた尊王攘夷派の志士達を、新撰組は襲撃します。新撰組は京都が火の海になる事を未然に防ぎました。

池田屋を襲撃したのは近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4人。斎藤は後から池田屋に合流した為、詳しい行動は不明です。池田屋事件で新撰組の名前が京都内に轟いたのは事実で、これ以降は新撰組の入隊人数が増加します。

ただ尊王攘夷派の志士が計画した「京都大火計画」も新撰組による捏造説もあります。それが事実なら新撰組の功績もかなり疑わしくなるのは事実です。実は新撰組の最大の功績は、歴史小説の題材として幕末人気に火をつけた事なのかもしれません。

功績2「戊辰戦争を最前線で戦う」

鳥羽伏見の戦い
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斎藤は旧幕府軍と新政府軍との戦いである戊辰戦争を最前線で戦い続けました。戊辰戦争の初戦は慶応4年(1868年)1月3日、現在の京都市文京区で起きた「鳥羽伏見の戦い」です。新撰組は旧幕府軍として参戦するも、新政府軍の勝利に終わります。

斎藤は3月29日に現在の山梨県甲州市で起きた「甲州勝沼の戦い」にも参戦するものの、こちらも新政府軍の勝利に終わります。斎藤は閏4月20日から現在の福島県で勃発した会津戦争に参戦。文字通り命を懸けて戦い抜きました。

土方歳三らが箱館まで転戦する中、斎藤は会津に残り会津藩士と新政府軍への抵抗を続けています。会津戦争で会津藩が降伏したのは9月2日。しかし斎藤と一部の会津藩士は最後まで抵抗を続けています。

斎藤が降伏したのは10月8日。松平容保の親書で降伏を打診された為です。斎藤は最後まで会津藩、ひいては徳川幕府に忠義を貫いたのでした。

下の記事では、戊辰戦争について詳しく解説しているので、良ければ参考にしてください。

戊辰戦争とは?原因や流れ、主要人物をわかりやすく解説【年表付き】

功績3「警察官として西南戦争の鎮圧にあたる」

西南戦争暴徒出陣図
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明治10年(1877年)2月に西南戦争が勃発すると、斎藤は5月18日に戦争の渦中である九州へ派遣されました。斎藤は明治7年(1874年)に東京に移住し、警察官となっていました。

西南戦争は、西郷隆盛を盟主にした旧薩摩藩士による士族反乱。斎藤は「豊後口の戦闘」に参戦し、敵に斬り込みをかけて大砲2門を奪う等の活躍を見せます。斎藤の活躍は新聞にも報道され、その名を轟かせたのです。

西南戦争は明治政府側の勝利に終わりますが、決して優勢ではありませんでした。激戦となった「田原坂の戦い」で帝国陸軍の死傷者は続出。これは帝国陸軍の兵の多くは徴兵された平民だった事、西郷軍は士族が中心だった事も大きいのです。

斎藤は選りすぐりの精鋭として申し分ない活躍を見せました。西南戦争における帝国陸軍の勝利は、斎藤達の功績も大きいのです。

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