保元の乱をわかりやすく解説!場所や覚え方、平治の乱との違いも紹介

藤原頼長

藤原頼長
出典:Wikipedia

藤原頼長は保元の乱の最中に、矢が頸部に当たり重症を負います。死期を悟った頼長は、自分を愛してくれた父・忠実に面会を求めて奈良を訪れました。しかし忠実は息子の面会を拒否。頼長は失意のうちに7月14日に死去しました。

無論、忠実は愛する息子に会いたかったでしょう。ただ頼長と忠実親子はこの時点で「謀反の疑い」があるとされ、面会をすると忠実にも罪が及びます。そうなれば藤原摂関家は終わりでした。だからこそ、忠実は涙ながらに頼長一行を追い返したのです。

ちなみに頼長は没後も罪人として扱われます。崇徳上皇の怨霊が噂された時には頼長も怨霊になったとされ、朝廷は正一位・太政大臣が追贈して鎮魂にあたっています。

藤原忠通

藤原忠通
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ただ保元の乱を経て頼長が所有していた荘園は没収され、藤原摂関家の影響力は大きく後退しました。ただ忠通自体は後の平治の乱でも清盛側について生き残っています。

忠通は藤原摂関家の復権は果たせませんでした。ただ彼の直系子孫は「五摂家」となり、明治維新に至るまで関白や摂政を輩出する家柄となりました。

平清盛

清盛は保元の乱では最大勢力として後白河天皇側につき、勝利に貢献しました。清盛は信西と協力関係にあり、平家一族は播磨守や大宰大弐に任命されます。武士団の中で頭一つ抜けていた清盛は、更に勢力を拡大しました。

平清盛とはどんな人物か?生涯・年表まとめ【功績や逸話も紹介】

平忠正

清盛の叔父にあたる人物ですが、清盛とは早い頃から不仲だったとされます。勢力も弱かったようで、肖像画もありません。各地を潜伏していた忠正ですが、清盛を頼って息子達を連れて投降しています。

忠正は7月27日に罪名宣旨が下るものの、判決は死罪でした。この時代「公式な場所」での死刑判決は存在せず、200年ぶりの事でした。この判決は信西が画策したものです。

保元物語によれば清盛は信西と結束して源氏の勢力を削ぐ事を考え、自分が進んで忠正を処刑する事で、義朝が為義を処刑せざるを得ない状況に追い込んだともされます。結果的に忠正は7月28日に処刑されました。

源義朝

源義朝
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保元の乱では積極的に夜襲を提案する等、後白河天皇陣営で大きな功績を残しました。義朝は左馬頭という役職に命じられます。

やがて「源為義とその息子の死刑判決」が下ると、義朝は自分の戦功も引き換えに罪の助命を図るものの、信西に却下されます。義朝は7月30日に父・為義や弟を自らの手で斬首。父殺しの義朝は「ヲヤノクビ切ツ」と周囲から批判されるのです。

保元の乱では多大なる貢献をし、親殺しの烙印を押されたにもかかわらず、乱後の恩賞は清盛の方が上でした。後の平治の乱では清盛と義朝は敵味方に分かれて戦いますが、この時の軋轢も背景にあったともされます。

源為義

源為義
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崇徳上皇側についた為義も、忠正と共に死刑判決が下ります。義朝は助命嘆願に動くものの、罪が覆る事はなく、息子に一族の繁栄を託して斬首を受け入れました。

信西が過酷な処断を命じたのは、為義一行が藤原摂関家と強い結びつきをもっており、その勢力を削ぐ為でした。反対に義朝は鳥羽法皇の信任をうけており、両者は対立したのです。ただ最期に義朝は助命嘆願に動くなど「親子の絆」は忘れていなかったのです。

源為朝

源為朝
出典:Wikipedia

最強の武士とされた為朝ですが、後日談があります。「保元物語」では為朝が実質的な主人公として描かれており、人並み外れたエピソードが掲載されているのです。

  • 身長2mを超える巨体で、左腕が右腕より12cm長い
  • 捕縛されるが才能を惜しまれ、肘を外した状態で伊豆に流罪となる
  • 傷が癒えると伊豆の地で暴れまわる
  • 1165年頃に伊豆諸島に渡り、この地を支配
  • 討伐にきた船を弓矢で沈めるも、最期は念仏を唱えて自害する

一連のエピソードがどこまで真実かは不明ですが、伊豆大島には「為朝の碑」が建てられています。

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