保元の乱の各勢力
後白河天皇側の挑発により発生した保元の乱。乱には源氏と平氏の武士達がそれぞれの陣営に入り戦います。彼らは親子や兄弟、叔父と甥などの血縁関係にありながら対立したのです。
崇徳上皇の陣営
崇徳上皇の挙兵に伴い、崇徳陣営には崇徳上皇の側近の他、藤原頼長の配下にいる武士達が集まります。崇徳上皇側の主な人物は以下の通りです。
- 崇徳上皇
- 藤原頼長(藤原氏長者・左大臣)
- 藤原教長(崇徳上皇の側近の貴族)
- 源為義(みなもとのためよし)(源義朝の父親)
- 源為朝(みなもとのためとも)(源為義の八男)
- 平忠正(たいらのただまさ)(平清盛の叔父)
源為義はもともと鳥羽法皇に仕えていたものの、度重なる不祥事で信任を失っています。結果的に藤原忠実・頼長親子に接近して再起を図っていました。平忠正も平氏の中では傍流になく、藤原摂関家に接近しています。
崇徳上皇側についた勢力は藤原頼長の私兵集団に限定され、勢力は弱小で劣勢なのは明白でした。崇徳上皇が一抹の望みを賭けたのは、当時最大の勢力を誇っていた「平清盛」が味方になる事でした。
後白河天皇の陣営
崇徳上皇側が信西の策略により挙兵を決意する頃、後白河天皇側も武士を動員。主な人物は以下の通り。
- 後白河天皇
- 藤原忠通(関白で藤原頼長の兄)
- 信西(後白河天皇の乳母の夫)
- 源義朝(みなもとのよしとも)(源為義の長男)
- 源義康(みなもとのよしやす)(足利尊氏の遠い祖先)
- 平清盛(平忠正の甥)
- ほか多数の武士
後白河天皇側にはたくさんの武士がつきます。平清盛はこの時点では後白河天皇、崇徳上皇どちらにも味方になれる立場にいました。清盛の父・忠盛は鳥羽法皇の重臣として重用され、清盛の義母・池禅尼は崇徳上皇の皇子・重仁親王の乳母を務めていたのです。
ただ池禅尼は崇徳上皇側の敗北を予感。結果的に清盛は後白河天皇側につく事を決めました。
乱は3時間ほどで決着がつく
7月10日の夜に崇徳上皇は白河北殿、後白河天皇は東三条院に兵を構えます。圧倒的な兵力差がある中、崇徳上皇側は興福寺の悪僧集団の援軍の合流が頼りでした。そんな中、源為朝は藤原頼長に「とある提案」をしたのです。
源為朝の夜襲の提案
為朝は「兄の義朝は必ず夜襲を仕掛けてくる。こちらから夜襲を仕掛けるべき」と提案。しかし藤原頼長は「天皇と上皇の争いに、夜襲という卑怯な事はするべきではない」とその意見を退けました。
為朝は当時最強と呼ばれた猛将。頼長に提案を退けられた事に憤慨しています。結局は頼長の提案により、援軍が到着するまで出陣は見送られます。
後白河天皇側の夜襲
一方で後白河天皇陣営では義朝と信西が夜襲を主張。ためらう藤原頼通を急かして夜襲は決行されました。為朝の予想は当たったわけですね。ちなみに夜襲の提案の際、平清盛はあまり発言をしていません。
7月11日未明、清盛率いる300余騎、義朝率いる200余騎、義康率いる100余騎が崇徳上皇の陣営を襲撃。後白河上皇側の夜襲により武力衝突が発生します。
崇徳陣営の敗北
崇徳上皇側は源為朝が強弓で獅子奮迅の活躍を見せます。清盛軍は有力な武士が犠牲となり、義朝軍も50名の死傷者が出ます。後白河天皇陣営は次々と新手の軍勢を投入しました。多勢に無勢の崇徳上皇側は追い詰められます。
最終的には義朝の提案で、白河北殿の西隣にある藤原家成邸に火がつけられます。この火が白河北殿に燃え移り、崇徳上皇や藤原頼長は逃走。上皇側は総崩れになります。
結果的に保元の乱は3時間ほどで後白河天皇陣営の勝利に終わります。正々堂々ではなく夜襲だとしても勝利に変わりありません。
保元の乱における主要人物とその後
保元の乱はあっさり終結しますが、敗者に向けた処断は過酷でした。13日に崇徳上皇は仁和寺に出頭し、それに伴って崇徳上皇側の武士や貴族達も続々と投降します。
保元の乱が起きた時点で「正式な帝」は後白河天皇であり、崇徳上皇の求心力はほぼありません。更に崇徳上皇を担いだ藤原頼長は「悪左府」と呼ばれる程に嫌われていました。この点からも崇徳上皇が勝つ見込みはありませんでした。
後白河天皇陣営は崇徳上皇陣営に対し、過酷な処置を断行します。保元の乱の関係者のその後を見ていきましょう。
後白河天皇
勝利者となった後白河天皇ですが、主導権を握っていたのは信西です。この時点で彼は形式的な存在に過ぎません。したがって保元の乱で下された処遇も信西が主張したものでした。
後白河天皇は中継ぎ役として即位した経緯がありました。そのため1158年に第一皇子の守仁親王(二条天皇)に譲位して、自身は上皇になります。やがて後白河上皇派と二条天皇派の対立が本格化し、平治の乱が勃発するのです。
崇徳上皇
崇徳上皇は前述した通り、讃岐に流罪となりました。怨霊として恐れられた事も述べた通りです。しかし「今鏡」で我が身の不幸を嘆きつつ、寂しく過ごした事が書かれており「保元物語」の記載とは異なります。
晩年の崇徳上皇は重仁親王に先立たれる不幸に会うものの、役人の娘との間に1男1女をもうけました。また讃岐で「思ひやれ 都はるかに おきつ波 立ちへだてたる こころぼそさを」という歌を残しています。
おそらく崇徳上皇は怨霊になったのではありません。「崇徳上皇に後ろめたい思い」を持つ者達が「怨霊」を作り出したのです。崇徳上皇の最大の不幸は、本人が望まぬままに「怨霊」に仕立て上げられた事かもしれません。
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信西
信西は後白河天皇の近臣として、保元の乱の全てを主導。保元の乱では源為義や平忠正らに過酷な処断が下りますが、これは信西が主導したものです。
信西の本名は藤原通憲。藤原家の生まれであるものの、藤原摂関家とは異なり、主流から外れた家柄でした。彼は非常に頭が良かったものの、家柄で出世が決まる貴族社会に絶望して出家したのです。
保元の乱の経て信西の発言力は増しました。信西は藤原摂関家の弱体化や天皇親政を目指した政策を断行、後白河天皇の近臣として辣腕を振るいます。しかし一連の政策は保守派の貴族層との対立を招き、後の平治の乱の原因になったのです。