保元の乱で抑えておきたい3つのポイント
保元の乱はその後の歴史に大きな影響を与えました。保元の乱で抑えておきたいポイントについて解説していきます。
勝者は後白河天皇
保元の乱の勝者は後白河天皇でした。後白河天皇の側近には「信西(しんぜい)」という僧侶がいて、彼が一連の乱に至る挑発や天皇の勅命などの指示を出していたとされます。
保元の乱が始まった時点で崇徳上皇に味方した勢力は少なく、乱が始まる前から勝敗は決していました。保元の乱を経て、崇徳上皇側についた武将達は死罪や流罪、逃走と散々な目にあっています。
また後白河天皇は僅か3年で退位。後の天皇は後白河天皇の皇子である守仁(二条天皇)や順仁(六条天皇)が即位して院政体制を敷きます。これ以降は後白河天皇の血筋が皇位を継承する流れが続くのです。
武士が台頭するきっかけになる
保元の乱は後白河天皇と崇徳上皇のお家騒動が発端であり、そこに藤原摂関家のお家騒動が結びついたものです。ただ彼らは武力を持ち合わせておらず、実際に戦ったのは武士達でした。
朝廷の争いも藤原摂関家の争いも、何年も前からくすぶっていたものです。しかし保元の乱はわずか3時間ほどで決着。長年の対立も武力を用いれば「強い者が勝つ」という単純な構図になる事が分かったのです。
保元の乱が勃発するまで、武士は朝廷や貴族の護衛をする立場でしかありませんでした。朝廷や貴族達は武士を冷遇し、武士達もそれに甘んじていたのです。
保元の乱を経て、武士達の存在感は増しました。1159年に武力衝突である平治の乱が勃発。更に1160年には平清盛による初の武家政権が誕生します。そして1189年には源頼朝による鎌倉幕府が成立。700年にわたる武家政権が誕生するのです。
崇徳上皇は怨霊となる
崇徳上皇は保元の乱に敗れ、讃岐(現・香川県)に流罪となります。「保元物語」によると崇徳上皇は讃岐の地で写経を書き、それを朝廷に送ります。しかし後白河上皇は「呪いが込められているのではないか」と疑い、写経を送り返したのです。
これに激しく怒った崇徳上皇は舌を噛みきり、写経に自らの血でこのように書き残しました。
日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん
この経を魔道に回向(えこう)す
崇徳上皇は爪や髪を切らずに夜叉のような姿になり、生きたまま天狗になったともされます。崇徳上皇は1164年に崩御するものの、やがて社会は不安定となり、1189年には源頼朝が武家政権を立ち上げるなど、社会は大きく変化しました。
当時の人々はこの動乱を「崇徳上皇の呪いによるもの」と恐れたのです。やがて崇徳上皇は菅原道真や平将門と並ぶ日本三大怨霊に数えられるのうになりました。崇徳上皇の呪いは明治政府が発足する1868年まで続いたのです。
保元の乱の経過
保元の乱の前夜
保元の乱が勃発するのは7月11日ですが、後白河天皇陣営と崇徳上皇陣営の水面下での争いが顕在化するのは、鳥羽法皇が崩御した7月2日からです。この10日の経過も見ていきましょう。
追い詰められる藤原頼長
7月5日頃から京都では「崇徳上皇と藤原頼長が国家を傾けようとしている」と噂が流れます。後白河天皇側はこの噂を利用。7月6日に頼長の側近を検非違使に逮捕されています。
7月8日に後白河天皇の綸旨(命令文書)が出され「藤原忠実・頼長親子から軍兵として駆り出されても、これに応じない事」と京に命令が下ります。
同日に東三条邸という藤原摂関家の氏長者の邸宅が襲撃。当時の藤原摂関家の氏長者は藤原頼長であり、頼長はこの時点で兵力も財産も没収された事になります。
崇徳上皇の脱出
7月9日夜中、身の危険を感じた崇徳上皇は鳥羽田中殿を脱出。そのまま白河北殿に避難します。頼長のように直接的に攻撃される事はなかったもの、このまま鳥羽田中殿に留まっていれば拘束される可能性がありました。
やがて10日の明け方に藤原頼長が白河北殿に入ります。謀反人扱いされ、追い詰められた頼長は挙兵してこの局面を打開するしかありません。そして挙兵の正当性を主張する為に崇徳上皇を担いだのでした。
ちなみに2人が挙兵に至った「崇徳上皇と藤原頼長が国家を傾けようとしている」という噂ですが、この噂を流したのは後白河天皇の側近・信西という説があります。崇徳上皇も頼長もそれらしい行動をしておらず、初めから彼らを追い詰めるつもりでした。