墾田永年私財法を理解する上で抑えておきたい3つのポイント
ポイント①「一定の効果はあった」
「永久的に墾田の私有地を認めた事」で開墾が進んだ事は間違いありません。自分で耕した土地が自分のものになれば、自分達で墾田の維持管理をするメリットが生まれます。農民たちは年貢として納める米だけでなく、麦などの穀物を育てるようになりました。
ちなみに実際に開墾が進んだ事が示唆される証拠があります。それは765年に出された「加墾禁止令」です。これに伴い「(寺社勢力を除き)これ以上の開墾や私有を禁じる事」が決まります。
ただこの時代に政権の中枢に立っていたのは、称徳天皇の庇護を受けていた僧侶・道鏡です。寺社勢力は墾田の開墾や私有地化は認められていた為、道鏡が他の仏教勢力を駆逐しようとした可能性も否定できません。
ちなみに称徳天皇が崩御し、道鏡が失脚すると墾田永年私財法は再び復活しています。これは藤原氏や他の貴族による圧力があった事が示唆されます。つまり「墾田永年私財法の復活=開墾を進める理由になる」という裏付けにもなるのです。
ポイント②「開墾された私有地にも税がかかる」
朝廷が墾田永年私財法を発布したのは、開墾する田畑を増やして税収を増やす事です。当然、口分田と同じように私有地化した墾田にも税がかかりました。
ちなみに田にもいくつか種類があります。税がかかる口分田や墾田などは「輸租田(ゆそでん)」、官職に置かれたものが保有する官田などは「不輸租田(ふゆそでん)」と呼びます。
墾田永年私財法は国家の指針である「公地公民制」を崩壊させるものでした。聖武天皇がこの法律を発布したのは「税の確保」です。聖武天皇は何度も遷都を行った他、同年に大仏の建立を命じています。
当然、これらの費用は莫大でした。口分田では足りない税収を納める為に墾田永年私財法は発令されたのです。大仏の建立は無事に達成されますが、その背景には墾田永年私財法のおかげで税の徴収量が増えた事もあるのかもしれません。
ポイント③「富裕層に有利な制度」
墾田永年私財法は前述した通り、位階に応じて開墾できる土地の広さが決まっていました。開墾に必要な灌漑や労働力は全て自前です。更に開墾してすぐに結果が出るわけではなく、土地にも当たり外れがありました。
財産のない一庶民が積極的に開墾する事は非現実です。位階を持つ者は、ある程度の労働力と財力を兼ね備えています。彼らが墾田を増やし、その税を朝廷に納める事が最も効率が良かったのでした。
当時の貴族界で勢力を拡大していたのは「藤原氏」と「橘氏」。彼らは朝廷以上に財政的に潤っていました。彼らに開墾を任せる方が都合が良かったのです。
ちなみにこの頃に聖武天皇の補佐を務めていたのは「橘諸兄」や「藤原仲麻呂」という人物です。彼が一連の法律を取り決めていたという説もあります。それが事実なら墾田永年私財法は、有力貴族が台頭する為に作られたものとも考えられますね。
墾田永年私財法が与えた5つの社会的影響
当時の社会情勢を踏まえて制定された墾田永年私財法ですが、後の日本に大きな影響を与えました。長いですが段階を追って解説していきます。
影響①「班田収授法の崩壊」
墾田永年私財法は制定されたものの「班田収授法による口分田の支給」という制度は残り続けました。結果的に墾田=貴族や寺社勢力、口分田=庶民という構図ができます。
口分田の税である「収穫高の3%」とは取れ高ではなく、事前に検地した時の予想量で定められていました。つまり不作の年も例年と同じ量を納める必要があります。更に庶民は防人として九州に駆り出される制度もあり、生活はとにかく困窮していました。
口分田を与えられた農民は重税に耐えかね、口分田を放棄。その結果、口分田から得られる税はどんどん減っていったのです。逃亡した農民の中には盗賊などになった者もいましたが、その多くは「土地を開墾する有力者」のもとへ逃げ込んでいきました。
一方で金持ち貴族は「開墾後の人出」を欲しており、農民と貴族の両者の利害は一致。貴族は農民を小作人として働かせて、ますます墾田を増やしていきます。墾田が増加すると共に口分田はどんどん数を減らしていきます。
桓武天皇は口分田の期間を伸ばすなどの維持を図ります。しかし墾田永年私財法に伴う私有地の増加により、口分田自体が不足。農民逃亡もますます進みます。記録上は902年に醍醐天皇が班田を指示したのを最後に行われる事はありませんでした。
影響②「荘園制度の確立」
一方で金持ち貴族や寺社勢力が開墾した墾田は増加していきます。中には大規模な土地私有を行うと者も現れました。これらの私有土地を経営する為、現地に管理事務所がおかれましたが、これを「荘」と称し、荘の管理区域を「荘園」と呼ぶようになります。
つまり学校で習う「荘園」とは、有力貴族や寺社勢力が所有する広大な所有地の事を言うのです。ちなみに初期の荘園は貴族達が自らの指導で開墾した「自墾地系荘園」と呼ばまれす。
初期の荘園は「輸租田」であり、税は朝廷に支払われていました。荘園が税の確保に一定の効果があった事は間違いありません。しかし荘園を利用して「脱税」を考える貴族も現れました。
高位の者は開墾に有利な事は述べましたが、その他にも重要な特権がありました。それが「庭を持つ権利」です。庭は完全な私有地なので税はかかりません。つまり「開墾された私有地」でも「別荘の庭園だから税はかからない」と主張する事が出来ました。
つまり荘園を手にした貴族達は「本来納めるべき税」を納めなくなり、墾田永年私財法は本来のあり方からかけ離れて行ったのです。