墾田永年私財法とは743年に日本で制定された法律です。この法律で「自分で開墾した田畑や土地は永久的に私財になる事」が認められました。
藤原摂関家や武士を生むきっかけにもなったため、日本の古代史を学ぶ上で非常に重要な法律ですが、「いまいち内容が理解できてない」という方も多いのではないでしょうか?
そこで今回は「墾田永年私財法とは何か?」を簡単にまとめました。法律が生まれた背景から与えた影響、都市伝説まで要点をまとめながらわかりやすく解説します。
この記事を読めば、法律が苦手な方でもストレスなく墾田永年私財法を理解できますよ。
この記事を書いた人
Webライター
Webライター、吉本大輝(よしもとだいき)。幕末の日本を描いた名作「風雲児たち」に夢中になり、日本史全般へ興味を持つ。日本史の研究歴は16年で、これまで80本以上の歴史にまつわる記事を執筆。現在は本業や育児の傍ら、週2冊のペースで歴史の本を読みつつ、歴史メディアのライターや歴史系YouTubeの構成者として活動中。
墾田永年私財法とは
墾田永年私財法は743年(天平15年5月27日)に制定された法律です。墾田永年私財法の制定により、墾田(自分たちで開拓して作った耕地)は永久的な私財化が認められました。
当時の日本は「米や農作物」を税として朝廷に納める事になっていました。開墾した田畑で取れた農作物も租税対象です。人口も増えていく中で、それに似合うだけの田畑は開発されていません。朝廷は税が少ない事に頭を抱えていました。
朝廷が墾田永年私財法を制定したのは「土地の私有化を認めて開墾のモチベーションを上げる事」と「開墾した田畑を増やして国家の税収を増やす」という目的があったのです。
制定された年号は天平15年
墾田永年私財法が制定されたのは天平15年(743年)5月27日。時代は奈良時代中期です。奈良時代とは710年〜794年の間で「奈良の都」である平城京に都が置かれた時期でした。
墾田永年私財法の語呂合わせとしては「名より 実(743)を取る 墾田永年私財法」や「馴染み (743) になった私財法 墾田永年私財法」などがあります。
また似た言葉に「三世一身法」があります。こちらは「何!三(723)代まで所有できるの?三世一身の法」と覚えましょう。
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制定したのは聖武天皇
墾田永年私財法は時の天皇である聖武天皇の勅(天皇の直接的な命令や、命令が書いてある文書)として出されました。聖武天皇といえば東大寺に奈良の大仏を建てた人物として有名です。
聖武天皇が即位したのは724年。その後の737年には天然痘が大流行し、日本の総人口の25〜35%が死亡する大惨事が起きています。更に各地で火災や大地震、政府高官の反乱なども勃発。聖武天皇は恐怖のあまり、都を何度も移しています。
そして仏教に傾倒した聖武天皇は743年に「東大寺盧舎那仏像の造立の詔」を発令。墾田永年私財法が発令されたのはまさに激動の時代の中でした。
墾田永年私財法の原文と現代語訳
類聚三代格に書かれている墾田永年私財法
ちなみに墾田永年私財法は「類聚三代格(1000〜1100年頃に編纂)」や「続日本紀」という法例集に原文が残されています。「類聚三代格」の内容は以下の通りです。ちなみに「類聚三代格」の規定は820年に編纂された弘仁格に由来したものです。
原文
勅。如聞。墾田拠養老七年格、限満之後、依例収授。由是農夫怠倦、開地復荒。自今以後、任為私財。無論三世一身、悉咸永年莫取。其国司在任之東大寺盧舎那仏像の造立の詔、墾田一依前格。但人為開田占地者、先就国申請、然後開之。不得因茲占請百姓有妨之地。若受地之後至于三年、本主不開者、聴他人開墾。
天平十五年五月廿七日
現代語訳
「この勅を聖武天皇が出す。今までは墾田の取り扱いは養老4年に決められた三世一身法に基づいて、満期になれば没収し「国の保有する耕地」として他の耕作者に授与していた。
しかし没収される事で農民はやる気をなくし、開墾したはずの墾田は荒れ果てた。これからは墾田を各々の私財として認め、没収しない。ただ現任の国司(中央から派遣される行政官)の在任中は墾田の取り扱いは今まで通りとする。
また土地を開墾する場合は、まず国に申請する事。この法律を根拠に公衆に妨げのある土地を所有する事は出来ない。もし許可を受けた者が3年経っても開墾しない場合は、他の者からの開墾の申請を許可する。
天平15年5月27日」