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墾田永年私財法とは?目的や現代語訳、制定された背景もわかりやすく解説

墾田永年私財法とは743年に日本で制定された法律です。この法律で「自分で開墾した田畑や土地は永久的に私財になる事」が認められました。

夏の水田
出典:Wikipedia

藤原摂関家や武士を生むきっかけにもなったため、日本の古代史を学ぶ上で非常に重要な法律ですが、「いまいち内容が理解できてない」という方も多いのではないでしょうか?

そこで今回は「墾田永年私財法とは何か?」を簡単にまとめました。法律が生まれた背景から与えた影響、都市伝説まで要点をまとめながらわかりやすく解説します。

この記事を読めば、法律が苦手な方でもストレスなく墾田永年私財法を理解できますよ。

墾田永年私財法とは

夏の稲穂
出典:Wikipedia

墾田永年私財法は743年(天平15年5月27日)に制定された法律です。墾田永年私財法の制定により、墾田(自分たちで開拓して作った耕地)は永久的な私財化が認められました。

当時の日本は「米や農作物」を税として朝廷に納める事になっていました。開墾した田畑で取れた農作物も租税対象です。人口も増えていく中で、それに似合うだけの田畑は開発されていません。朝廷は税が少ない事に頭を抱えていました。

朝廷が墾田永年私財法を制定したのは「土地の私有化を認めて開墾のモチベーションを上げる事」と「開墾した田畑を増やして国家の税収を増やす」という目的があったのです。

制定された年号は天平15年

平城京の配置図
出典:Wikipedia

墾田永年私財法が制定されたのは天平15年(743年)5月27日。時代は奈良時代中期です。奈良時代とは710年〜794年の間で「奈良の都」である平城京に都が置かれた時期でした。

墾田永年私財法の語呂合わせとしては「名より 実(743)を取る 墾田永年私財法」や「馴染み (743) になった私財法 墾田永年私財法」などがあります。

また似た言葉に「三世一身法」があります。こちらは「何!三(723)代まで所有できるの?三世一身の法」と覚えましょう。

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制定したのは聖武天皇

聖武天皇
出典:Wikipedia

墾田永年私財法は時の天皇である聖武天皇の勅(天皇の直接的な命令や、命令が書いてある文書)として出されました。聖武天皇といえば東大寺に奈良の大仏を建てた人物として有名です。

聖武天皇が即位したのは724年。その後の737年には天然痘が大流行し、日本の総人口の25〜35%が死亡する大惨事が起きています。更に各地で火災や大地震、政府高官の反乱なども勃発。聖武天皇は恐怖のあまり、都を何度も移しています。

そして仏教に傾倒した聖武天皇は743年に「東大寺盧舎那仏像の造立の詔」を発令。墾田永年私財法が発令されたのはまさに激動の時代の中でした。

墾田永年私財法の原文と現代語訳

類聚三代格に書かれている墾田永年私財法

類聚三代格
出典:国文学研究資料館

ちなみに墾田永年私財法は「類聚三代格(1000〜1100年頃に編纂)」や「続日本紀」という法例集に原文が残されています。「類聚三代格」の内容は以下の通りです。ちなみに「類聚三代格」の規定は820年に編纂された弘仁格に由来したものです。

原文

勅。如聞。墾田拠養老七年格、限満之後、依例収授。由是農夫怠倦、開地復荒。自今以後、任為私財。無論三世一身、悉咸永年莫取。其国司在任之東大寺盧舎那仏像の造立の詔、墾田一依前格。但人為開田占地者、先就国申請、然後開之。不得因茲占請百姓有妨之地。若受地之後至于三年、本主不開者、聴他人開墾。

天平十五年五月廿七日

現代語訳

「この勅を聖武天皇が出す。今までは墾田の取り扱いは養老4年に決められた三世一身法に基づいて、満期になれば没収し「国の保有する耕地」として他の耕作者に授与していた。

しかし没収される事で農民はやる気をなくし、開墾したはずの墾田は荒れ果てた。これからは墾田を各々の私財として認め、没収しない。ただ現任の国司(中央から派遣される行政官)の在任中は墾田の取り扱いは今まで通りとする。

また土地を開墾する場合は、まず国に申請する事。この法律を根拠に公衆に妨げのある土地を所有する事は出来ない。もし許可を受けた者が3年経っても開墾しない場合は、他の者からの開墾の申請を許可する。

天平15年5月27日」

続日本紀に書かれている墾田永年私財法

続日本紀
出典:東京国立博物館

「類聚三代格」に記載されているのは前述した部分まです。しかし「続日本紀」を見ると以下の内容も聖武天皇から出されていた事が分かります。続日本紀は697年から791年まで95年間の歴史を扱っており、内容は以下の通りです。

「(悉咸永年莫取。)其親王一品及一位五百町。二品及二位四百町。三品四品及三位三百町。四位二百町。五位百町。六位已下八位已上五十町。初位已下至于庶人十町。但郡司者、大領少領三十町、主政主帳十町。若有先給地過多茲限、便即還公。姦作隱欺、科罪如法。((其)国司在任之日。)」

現代語訳

「その土地の広さは、親王の一品と一位には五百町。二品と二位には四百町。三品・四品と三位には三百町。四位には二百町。五位には百町。六位以下八位以上には五十町。初位以下(無位の)庶人は十町とする。

もし以前に与えられた土地で、この限度より多いものがあればすみやかに国に返す事。不正に土地を所有して隠し欺く事があれば、法に則って罪を課す。」

「町(ちょう)」とは距離の単位です。古来の条里制では「六尺=1歩=約109mの正方形や菱形、長方形」となっています。一品や一位等は「位階」という「国家の制度に基づく個人の序列」の事です。

つまり身分で開墾できる土地の広さに違いがあると言う事ですね。「続日本紀」は797年に編纂されたものなので「続日本紀」の方が実際の法律に近いと考えられます。弘仁格が編纂された頃には、身分による開墾制限は撤廃されていた事が分かります。

墾田永年私財法が生まれた3つの歴史的背景

墾田永年私財法の誕生を知る為には、645年に行われた「大化の改新」までさかのぼる必要があります。当時の日本は土地や人民は各地の「豪族」が所有しており、ヤマト政権が樹立していました。

背景①「大化の改新(645年)」

蘇我入鹿を殺害し、大化の改新は行われた
出典:Wikipedia

大化の改新を主導したのは教科書でも習う通り中大兄皇子と中臣鎌足です。彼らは「天皇を中心とした中央集権国家」を目指し、646年に新政権を樹立。そして「改新の詔」を発布しました。大まかな内容以下の通りです。

  • 土地と人民は公、すなわち天皇に帰属する(公地公民制の樹立)。
  • 初めて首都を定める。国(くに)、県(あがた)、郡(こおり)などを整理する。
  • 「班田収授法」を制定し、土地を民に貸し与える。更に戸籍と計帳を作成する。
  • 公民に税や労役を負担させる

改新の詔を出した新政権でしたが、改革はすぐに進みません。政権内で対立が起きた他、662年に「白村江の戦い」で日本は・新羅の連合軍に大敗しています。更に国内では672年に「壬申の乱」が起きているからです。

壬申の乱は中大兄皇子(天智天皇)の異母弟の大海人皇子と、息子の友皇子による古代最大の内乱でした。勝利したのは大海人皇子であり、彼は673年に天武天皇として即位。「天皇を中心とした中央集権国家作り」がようやく進み始めたのでした。

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背景②「班田収授法(701年)」

701年に大宝律令が発令されます。「律」は刑法、「令」は民法や行政法を指し、大宝律令は日本が律令によって国家を治める事を明言化したものです。発令したのは文武天皇ですが、天武天皇の頃から大宝律令の準備は進められてきました。

改新の詔の目玉だった「班田収授法」もようやく実現します。戸籍や計帳に基づき、受田資格を得た貴族や人民は朝廷から田が支給されます。その田を「口分田」と呼び、収穫高の3%を税(租)として朝廷に納める事になりました。

ただ班田収授法には「人口が増加すると支給する口分田が足らない」という問題点がありました。口分田を増やす為には土地を開墾する必要がありますが、当時は土地は全て天皇のもの。率先して開墾する人はいません。維持費も開墾労力も甚大だからです。

朝廷は722年に東北地方を中心に「百万町歩開墾計画」という壮大な開墾計画を立てますが、成果を上げる事は出来ませんでした。この時点で朝廷は墾田不足に陥っていたのです。

背景③「三世一身法(723年)」

現在の灌漑施設
出典:Wikipedia

朝廷は723年に三世一身法を発布します。これは「開墾した墾田は三世代にわたり、私有化を認める」というものでした。つまり本人、息子、孫の代までの墾田の私有化が認められたのです。しかし三世代が終われば、開墾した土地は没収されます。

また三世代の私有化が認められたのは「灌漑施設(溝や池)」を新設した場合です。既設の灌漑施設を利用した場合は一世代のみの私有化に留められました。この時点で朝廷は「公地公民制」の制度を一部放棄したとも言えます。

当時は平均寿命が短く、私達が思う三世代よりもサイクルは短かったようです。規定によっては一世代で私有化は終わる為、開墾には思ったほどの効果はなかった事が「類聚三代格」からも分かります。

ただ墾田永年私財法が制定されたのは743年。三世一身法から20年しか経っておらず、没収期限が近づいたのかは疑問です。「農民が怠けた」というのは建前で、寺社や貴族豪族の利益誘導を狙った可能性もあります。

いずれにせよ、645年の大化の改新を経て定められた公地公民制は743年の墾田永年私財法で崩壊の兆しを見せ始めました。

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