墾田永年私財法とは?目的や現代語訳、制定された背景もわかりやすく解説

続日本紀に書かれている墾田永年私財法

続日本紀
出典:東京国立博物館

「類聚三代格」に記載されているのは前述した部分までです。しかし「続日本紀」を見ると以下の内容も聖武天皇から出されていた事が分かります。続日本紀は697年から791年まで95年間の歴史を扱っており、内容は以下の通りです。

「(悉咸永年莫取。)其親王一品及一位五百町。二品及二位四百町。三品四品及三位三百町。四位二百町。五位百町。六位已下八位已上五十町。初位已下至于庶人十町。但郡司者、大領少領三十町、主政主帳十町。若有先給地過多茲限、便即還公。姦作隱欺、科罪如法。((其)国司在任之日。)」

現代語訳

「その土地の広さは、親王の一品と一位には五百町。二品と二位には四百町。三品・四品と三位には三百町。四位には二百町。五位には百町。六位以下八位以上には五十町。初位以下(無位の)庶人は十町とする。

もし以前に与えられた土地で、この限度より多いものがあればすみやかに国に返す事。不正に土地を所有して隠し欺く事があれば、法に則って罪を課す。」

「町(ちょう)」とは距離の単位です。古来の条里制では「六尺=1歩=約109mの正方形や菱形、長方形」となっています。一品や一位等は「位階」という「国家の制度に基づく個人の序列」の事です。

つまり身分で開墾できる土地の広さに違いがあると言う事ですね。「続日本紀」は797年に編纂されたものなので「続日本紀」の方が実際の法律に近いと考えられます。弘仁格が編纂された頃には、身分による開墾制限は撤廃されていた事が分かります。

墾田永年私財法が生まれた3つの歴史的背景

墾田永年私財法の誕生を知る為には、645年に行われた「大化の改新」までさかのぼる必要があります。当時の日本は土地や人民は各地の「豪族」が所有しており、ヤマト政権が樹立していました。

背景①「大化の改新(645年)」

蘇我入鹿を殺害し、大化の改新は行われた
出典:Wikipedia

大化の改新を主導したのは教科書でも習う通り中大兄皇子と中臣鎌足です。彼らは「天皇を中心とした中央集権国家」を目指し、646年に新政権を樹立。そして「改新の詔」を発布しました。大まかな内容以下の通りです。

  • 土地と人民は公、すなわち天皇に帰属する(公地公民制の樹立)。
  • 初めて首都を定める。国(くに)、県(あがた)、郡(こおり)などを整理する。
  • 「班田収授法」を制定し、土地を民に貸し与える。更に戸籍と計帳を作成する。
  • 公民に税や労役を負担させる

改新の詔を出した新政権でしたが、改革はすぐに進みません。政権内で対立が起きた他、662年に「白村江の戦い」で日本は・新羅の連合軍に大敗しています。更に国内では672年に「壬申の乱」が起きているからです。

壬申の乱は中大兄皇子(天智天皇)の異母弟の大海人皇子と、息子の友皇子による古代最大の内乱でした。勝利したのは大海人皇子であり、彼は673年に天武天皇として即位。「天皇を中心とした中央集権国家作り」がようやく進み始めたのでした。

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背景②「班田収授法(701年)」

701年に大宝律令が発令されます。「律」は刑法、「令」は民法や行政法を指し、大宝律令は日本が律令によって国家を治める事を明言化したものです。発令したのは文武天皇ですが、天武天皇の頃から大宝律令の準備は進められてきました。

改新の詔の目玉だった「班田収授法」もようやく実現します。戸籍や計帳に基づき、受田資格を得た貴族や人民は朝廷から田が支給されます。その田を「口分田」と呼び、収穫高の3%を税(租)として朝廷に納める事になりました。

ただ班田収授法には「人口が増加すると支給する口分田が足らない」という問題点がありました。口分田を増やす為には土地を開墾する必要がありますが、当時は土地は全て天皇のもの。率先して開墾する人はいません。維持費も開墾労力も甚大だからです。

朝廷は722年に東北地方を中心に「百万町歩開墾計画」という壮大な開墾計画を立てますが、成果を上げる事は出来ませんでした。この時点で朝廷は墾田不足に陥っていたのです。

背景③「三世一身法(723年)」

現在の灌漑施設
出典:Wikipedia

朝廷は723年に三世一身法を発布します。これは「開墾した墾田は三世代にわたり、私有化を認める」というものでした。つまり本人、息子、孫の代までの墾田の私有化が認められたのです。しかし三世代が終われば、開墾した土地は没収されます。

また三世代の私有化が認められたのは「灌漑施設(溝や池)」を新設した場合です。既設の灌漑施設を利用した場合は一世代のみの私有化に留められました。この時点で朝廷は「公地公民制」の制度を一部放棄したとも言えます。

当時は平均寿命が短く、私達が思う三世代よりもサイクルは短かったようです。規定によっては一世代で私有化は終わる為、開墾には思ったほどの効果はなかった事が「類聚三代格」からも分かります。

ただ墾田永年私財法が制定されたのは743年。三世一身法から20年しか経っておらず、没収期限が近づいたのかは疑問です。「農民が怠けた」というのは建前で、寺社や貴族豪族の利益誘導を狙った可能性もあります。

いずれにせよ、645年の大化の改新を経て定められた公地公民制は743年の墾田永年私財法で崩壊の兆しを見せ始めました。

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