影響③「藤原摂関家が台頭する」
聖武天皇が墾田永年私財法を発布した頃は、橘諸兄率いる「橘氏」が台頭していました。しかし長い年月を経て貴族界では「藤原氏」が頭角を現します。藤原氏は朝廷を凌駕する権限を持ち始め、多少強引なやり方でも脱税を正当化出来たのです。
ちなみに「藤原良房(804〜872)」は皇族以外の人物で初めて摂政に就任した人物で。その年号は866年です。そして969年の安和の変を経て藤原氏に対抗できる貴族はいなくなりました。藤原一族の中で、特に力をつけた良房の家柄を藤原摂関家と呼びます。
また税を納めなくても良い権利を「不輸の権」、荘園に朝廷の役人の立ち入りを拒否する権利を「不入の権」と呼びます。不輸の権を駆使する藤原氏や有力貴族に対し、開墾した墾田を持つ農民や豪族は税を朝廷に納める必要がありました。
そこで彼らは「自分の土地を藤原氏などの有力に寄進。名義を藤原氏に変更し本来の税から逃れる事」を考えます。税を朝廷に納めるより、藤原氏に名義料を払う方がよほど安上がりで済んだからです。
皆からの寄進で肥大化した荘園を「寄進地系荘園」と呼びました。ちなみに「寄進地系荘園」は土地を寄進するものの、それは名義だけ。荘園の開発などは引き続きそれぞれの農民や豪族が担っています。
影響④「武士が生まれたきっかけとなる」
荘園が全国に広がっていきましたが、当時は警察のようなものは機能していません。墾田を持つ農民の中には「自分の土地は自分が守る」と武装する者も現れたり、有力貴族のガードマンとして雇われる事もありました。彼らは武士と呼ばれるようになります。
律令国家における官職として任地に赴く役職を「国司」と呼びます。しかし律令制度が崩壊する中で、実際に地方に赴く者は「受領」が担うようになりました。そして受領の中には任期を終えても中央に戻らずに、自分の領地に残る者も現れます。
領地に残った者の中には武士団を結成した者もおり、有名なのが天皇の一族でもあった「源氏」や「平家」でした。武士の起こりは非常に複雑ですが、墾田永年私財法が武士の形成に大きな影響を与えた事は間違いありません。
影響⑤「荘園整理令が発令される」
墾田永年私財法を経て全国に散らばった荘園ですが、朝廷は荘園の肥大化を防ぐために定期的に「荘園整理令」を発令しています。特に有名なのが「延喜の荘園整理令」と「延久の荘園整理令」でした。
延喜の荘園整理令は902年に醍醐天皇により出された法律です。この法律では「醍醐天皇が即位した897年以降の寄進を禁止する」「不正な寄進は禁止する」という内容でした。しかし藤原氏の持つ広大な荘園を減らす事には繋がりませんでした。
何故なら897年以前の荘園は認めており、ルールに則っていれば寄進も問題がなかった為です。貴族達の圧力やコネで「合法と判断された寄進」はその後も続き、荘園の拡大を止める事はできなかったのです。
延久の荘園整理令は1069年に後三条天皇が発令した法律です。後三条天皇は醍醐天皇やそれ以前の天皇と異なり、藤原家を外戚に持たない天皇でした。
後三条天皇は藤原氏の関与しない「記録荘園券契所」という荘園の精査期間を立ち上げます。これは割と効果があり、今まで荘園で利益を上げていた藤原氏や寺社勢力は大きなダメージを受けるのです。
墾田永年私財法がもたらしたもの
長い話でしたが、墾田永年私財法が日本史に与えた影響は非常に大きかったと言えます。大化の改新で定められた公地公民制は崩壊し、藤原氏などの有力貴族は私有地をどんどん増やしていきました。
荘園制度の確立により貧富の差は拡大し、武士が生まれる土壌が生まれました。墾田永年私財法は日本史におけるターニングポイントになったのです。