聖武天皇とはどんな人?生涯・年表まとめ【したことや家系図も紹介】

聖武天皇の生涯年表

続いて聖武天皇の年表について詳しく解説していきます。当時は太陰暦の為、西暦と年号で日付が一致していません。詳細を追って執筆する為、時系列については「西暦(年号)日付」という順で解説していきます。

701年〜707年 – 0〜7歳「首(おびと)皇子の生誕」

藤原京の復元模型
出典:Wikipedia

首皇子の生誕

701年 (大宝元年)に聖武天皇は文武天皇と藤原宮子の第一皇子として生誕。幼名は首皇子と言いますが、誕生日は分かっていません。文武天皇の皇后の存在は記録はなく、何かの理由で記録出来なかったか、記録から抹消された可能性があります。

宮子は出産後に心的障害となり、事実上の軟禁状態。首皇子の養育は宮子の義母であり、藤原不比等の後妻になった県犬養三千代が担いました。県犬養三千代は後に光明皇后となる安宿媛(あすかべひめ)を産んでおり、2人は幼少期から顔なじみでした。

文武天皇の崩御

聖武天皇の父・文武天皇
出典:Wikipedia

707年(慶雲4年)6月15日に父・文武天皇が25歳で崩御。文武天皇の直系は首皇子しかおらず、更に首皇子は僅か6歳。若すぎる事を理由に文武天皇の母が元明天皇として7月に即位しました。

708年〜724年 – 8〜24歳「安宿媛との結婚と天皇即位」

聖武天皇の祖母・元正天皇
出典:Wikipedia

天皇の座を引き継げず

714年(和銅7年)6月に首皇子は皇太子となります。翌年に元明天皇は老齢で退位するものの、首皇子は病弱でした。元明天皇は「(首皇子は)年歯幼く稚くして深宮を離れず」として、自分の娘で文武天皇の姉である元正天皇として即位させたのです。

15歳といえば文武天皇が即位した年でした。だが首皇子は「皇位を継ぐ事は出来ない」と判断されており、首皇子は自らの天皇の資質に悩んでいました。

天皇に即位する

聖武天皇の叔母である元明天皇
出典:Wikipedia

717年(養老元年)に首皇太子は幼馴染の安宿媛と結婚。安宿媛は光明子と名を変え、翌年に阿倍内親王(後の孝謙天皇)が誕生します。

養老4年(720年)8月に藤原不比等が亡くなると、息子達の藤原四兄弟に変わり、聖武天皇とは別の血筋の長屋王が勢力を握ります。

長屋王は首皇太子を除けば最も皇位に近い人物で、藤原四兄弟と激しく対立していました。政界の勢力図が様変わりする中、724年(神亀元年)2月4日に首皇子は天皇に即位したのです。ここからは首皇太子ではなく、聖武天皇と呼びますね。

725〜729年 – 25〜29歳「長屋王の変」

長屋王の墓
出典:Wikipedia

基皇太子の誕生と夭折

727年(神亀4年)閏9月に聖武天皇と光明子との間に、待望の男児である基皇子(もといのみこ)が誕生。聖武天皇の喜びは大きく、生誕から1ヶ月後には盛大な祝宴が開かれています。しかし翌年の8月に基皇子は崩御。聖武天皇の悲しみは大きかったようです。

その後、この死は「皇位奪還を目論む長屋王の呪詛」によるものという噂が宮中に流れました。729年(神亀6年)2月には長屋王に謀反の疑いがかけられ、長屋王は邸宅を六衛府の軍勢に包囲され、自殺したのです。

大勢の兵を動員する場合は天皇の勅が必要で、長屋王の邸宅襲撃を許可したのは他ならぬ聖武天皇でした。基皇子を失った悲しみが、長屋王に対する疑念を抱かせる事になったのです。

藤原四兄弟政権の発足

長屋王の変の黒幕は藤原四兄弟だとされます。彼らは邪魔者だった長屋王が自殺すると、光明子を聖武天皇の正妃にする為の行動を開始。その年には光明子を聖武天皇の正妃にする事に成功したのです。光明子は光明皇后となりました。

当時は男性の天皇が崩御した時に、その正妃が天皇になるケースもありました。その為、天皇の正妃は皇族がなる事が決まっており、藤原一族の者が正妃になるのは異例です。長屋王の変と光明子の正妃入り。藤原家は少しずつ朝廷に影響力を与えていきました。

730〜738年 – 30〜38歳「天然痘の大流行」

吉備真備像
出典:Wikipedia

天然痘の大流行は長屋王の祟り?

その後は藤原四兄弟が政治の実権を握る状態がしばらく続きます。しかし735年(天平7年)、九州の太宰府に到着した一隻の船から天然痘が日本に持ち込まれます。やがて天然痘は全国に広がり、737年(天平9年)には藤原四兄弟は相次いで死去しました。

この天然痘の大流行で100万人〜150万人が死去。日本国民の25〜35%が亡くなった事になります。大臣に就任出来る身分の者も亡くなり、9月には橘諸兄を中心に、遣唐使に参加した経験のある吉備真備・玄昉をブレーンにした新たな政治体制が作られました。

長屋王への鎮魂

玄昉
出典:Wikipedia

この天然痘の大流行により、聖武天皇の自信は失墜します。当時は天変地異は「為政者の資質不足が原因」とされたからです。更に藤原四兄弟が亡くなったのは、無実の罪で長屋王を死に至らしめた事が原因と噂されました。

聖武天皇は長屋王の実弟・鈴鹿王を知太政官事に免じています。大臣になれる身分の者の多くが亡くなった事も理由ですが、長屋王への鎮魂も込められています。聖武天皇はこれ以降、天皇たる資質の懸念と長屋王の祟りを恐れる事になるのです。

なお、天然痘の大流行は738年(天平10年)の1月にほぼほぼ終息。そして藤原四兄弟の死により、聖武天皇の母親である宮子は玄昉から治療を受ける事になり、37年ぶりに聖武天皇と面会を果たすのです。

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