聖武天皇とはどんな人?生涯・年表まとめ【したことや家系図も紹介】

738〜741年 – 38〜41歳「仏教を厚く信仰する」

藤原広嗣
出典:Wikipedia

様々な政策を打ち出す

天然痘の大流行以降、聖武天皇は仏教に深く帰依します。737年(天平9年)には国ごとに仏像や写経を納める事を命じ、740年(天平12年)には七重塔を建てる詔が発布されます。これらの発令を集約した「国分寺建立の詔」が翌年には発布されました。

ただ740年(天平12年)8月29日には九州の太宰府で藤原広嗣が乱を起こします。彼は藤原四兄弟の三男・宇合の長男でした。後に乱は朝廷が派遣した軍に鎮圧されます。ただ天変地異と謀反を恐れた聖武天皇は平城京からの遷都を決行しました。

彷徨五年

藤原広嗣の乱の最中の10月29日に聖武天皇は平城京を出発。この頃に着工し始めていた恭仁宮に移り住み、この地を平城京に変わる都にすると決めるのです。12月15日に恭仁宮に到着し、急ピッチで工事は進められます。

741年(天平13年)から5年の間に聖武天皇は厄災等の世の中の乱れを恐れ、都を転々とします。その5年の期間を「彷徨五年」と呼ぶのです。なお「国分寺・国分尼寺建立の詔」を出したのは、741年の2月。恭仁宮に住んでいた時でした。

742〜745年 – 41〜45歳「紫香楽宮に遷都先を決める」

紫香楽宮の跡地
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あちこちで都作りが行われる

遷都から1年後の742年(天平14年)8月11日、聖武天皇は紫香楽宮に遷都する事を宣言。恭仁宮は作りかけのまま工事は終了し、紫香楽宮の造営に人手が駆り出されます。

聖武天皇は743年10月15日に紫香楽宮を訪れた時に「大仏建立の詔」を出しています。本来は紫香楽宮に大仏を建立する予定だったようです。紫香楽宮に聖武天皇は何度も通い、大仏建立の為の準備を進めていきました。

ところが744年(天平14年)の正月に聖武天皇は「遷都先は難波宮にする」と宣言。ただこの時点で恭仁宮、紫香楽宮、難波宮と都的なものが全国に散乱。745年(天平15年)正月に聖武天皇は「紫香楽を新京とする」と更に遷都先を戻しています。

745年 – 45歳「平城京に戻ってくる」

再建された平城京の建築物
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国民の不満はピークに達する

遷都が宣言される度に官人達は転居させられ、更に都の造営に多大なる人員が割かれます。度重なる遷都で国民は疲弊。4月には紫香楽宮周辺の山中で遷都に不満を持つ者による放火が相次ぎます。

当時は「山火事は神仏の祟り」とされていました。聖武天皇は4月27日に「大赦と租税免除」を行い、天皇の徳の高さを示すものの、当日に美濃地方で大地震が発生。動揺した聖武天皇は太政官の官人に「どこを都とすべきか」と問いました。

するも官人全員が「平城を都とすべし」と主張。遷都を連発し、皆を混乱させた聖武天皇でしたが、その言葉で5月11日に平城京に帰還。官人達の生活は元に戻ったのです。

聖武天皇が望んだもの

祟りを恐れた聖武天皇ですが、結局は平城京に戻ってきます。そして「絶対に成し遂げるべき事」に取り組み始めます。それは「大仏造立」です。8月には金光明寺(後の東大寺)で大仏の建立が本格的に始まったのです。

745〜749年 – 45〜49歳「大仏建立」

孝謙天皇(後の称徳天皇)
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大仏建立が本格的に始まる

聖武天皇は「大仏建立の詔」の中で、以下の事を述べています。現代語訳を引用すると以下の通りです。

私が恐れているのは、人々を無理やりに働かせて、彼らが聖なる心を理解できず、誹謗中傷を行い、罪におちることだ。だから、この事業に加わろうとする者は、誠心誠意、毎日盧舎那仏に三拝し、自らが盧舎那仏を造るのだという気持になってほしい。

大仏の建立には多大なる犠牲と膨大な費用がかかった事は事実です。当時は仏教の世界観が今とは比べ物にならない時代です。聖武天皇が大仏を建立する事で世の中の安寧を願った事は間違いありません。

突然の出家

749年(天平勝宝元年)7月2日に聖武天皇は娘の阿倍内親王に天皇の座を譲位。この頃の聖武太上天皇は新たな後継者の選定に悩んでいました。聖武太上天皇には2人の男子がいたものの、この時点では薨去しており、跡継ぎになるべき存在はいませんでした。

天皇とは男子の系統にのみ継承されるもの。元正天皇や元明天皇は女性の天皇ですが、聖武天皇が天皇になる為の繋ぎでした。阿倍内親王は孝謙天皇として即位するものの、孝謙天皇の子息から天皇に即位する事は「譲位のルール」から反します。

聖武太上天皇は天武天皇の血統から後継者を探す為、孝謙天皇を中継ぎとして即位させたのです。天皇家の血筋を守るためとはいえ、孝謙天皇は生涯独身を強いられ、子どもを残す事も許されませんでした。

750〜752年 – 50〜52歳「大仏の大筋が完成する」

東大寺盧舎那仏像
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大仏開眼供養会

743年から続いた大仏の鋳造ですが、752年(天平勝宝4年)4月9日に大仏開眼供養会が開催。開眼とは仏像の目に点睛を加え,魂を入れる仏教儀式です。752年は日本に仏教が伝来してから200年目の節目であり、聖武天皇はこの年を開眼供養会に定めたのです。

大仏開眼供養会には聖武太上天皇、光明皇后、そして孝謙天皇をはじめ、1万数千人もの参列者が集まります。国家の安寧を願う聖武太上天皇にとって、この日は生涯で一番満ち足りた日だったのかもしれません。

その後の聖武太上天皇

ただ大仏の建立はこの時点では終わっていません。聖武太上天皇はその後も大仏建立に尽力した他、754年(天平勝宝4年)には鑑真が来日し、孝謙天皇や光明皇后と共に面会しています。聖武太上天皇は譲位後も、天皇家に大きな影響を与えていたのです。

752〜756年 – 52〜56歳「聖武天皇の崩御」

聖武天皇の眠る佐保山南陵
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聖武天皇の崩御

結論から言えば聖武太上天皇は大仏の完成を見届ける事が出来ませんでした。754年(天平勝宝4年)5月2日に聖武天太上天皇は崩御。

死因については分かっていませんが、聖武天皇は生まれつき病弱でした。にもかかわらず遷都や大仏の建立など、様々な事に取り組んでいます。その激務が堪えたのかもしれません。

その後の出来事

ちなみに聖武太上天皇は「道祖王」を孝謙天皇の次の天皇にするように遺言を残します。しかし孝謙天皇は「大炊王」を新たな後継者に選びました。後に孝謙天皇は称徳天皇として再び天皇になりますが、770年に崩御。

その後は天智天皇をルーツにした光仁天皇が即位し、聖武天皇の使命だった「天武天皇の血筋を天皇にする事」は出来なくなりました。

ただ大仏の建立は聖武天皇が崩御した後もずっと続けられ、772年(宝亀2年)に完成。血筋は途絶えても聖武天皇の意思は形を変えて、今も残されていると言えるのです。

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