繰り返し遷都を行う
聖武天皇は740年に当時の首都・平城京(現・奈良県奈良市)から恭仁京(現・京都府木津川市)に遷都しました。遷都とは「首都を別の場所に移す事」であり、現在に至るまで日本でも行われています。聖武天皇が特別だったのは「遷都の頻度」です。
まず740年に平安京から恭仁京へ遷都。その間に「国分寺建立の詔」「東大寺盧舎那仏像の造立の詔」「墾田永年私財法」等の歴史的な施策をしています。しかし744年には未完の恭仁京を捨て、難波宮(現・大阪府中央区)に遷都をするのです。
更に745年には紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市)へ遷都を断行。ただ遷都にかかる費用や官人の負担は聖武天皇の治世に対する不満に変わります。同年には元々の首都である平城京に戻ります。実に5年間で4回の遷都でした。
専門家の中で「度重なる遷都の理由」は一致しています。それは「社会不安と政界の混乱を収束させる為」でした。当時は天然痘の大流行や藤原広嗣の乱などの社会的混乱が続き、聖武天皇はそれを恐れていたと言えます。
私達には馴染み深い聖武天皇ですが「大仏建立」に「度重なる遷都」と当時の国民は割と大変だった事が分かりますね。
聖武天皇の妻や娘について
聖武天皇には光明皇后という正妃と4人の側室がいました。光明皇后の父親は藤原不比等で、中臣(藤原)鎌足を父に持ちます。藤原家の人物が皇后になる事はこの時代では稀な事で、背景には藤原家の画策があったのです。
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ちなみに4人の側室はいずれも藤原不比等や光明皇后の母親・県犬養三千代の血縁者であり、聖武天皇の外堀は少しずつ埋められていたのです。
光明皇后の間には皇女の阿倍内親王と皇子の基王が生誕するものの、基王は1歳で崩御。阿倍内親王は女性の皇太子として749年に孝謙天皇として即位します。ちなみに側室の県犬養広刀自の皇子として安積親王が生誕するものの、謎の死を遂げています。
孝謙天皇は後に称徳天皇として、二度目の皇位に就くものの770年に死去。当時は男系の血筋が重要だった時代であり、女性天皇の子供は天皇になる事は出来ません。孝謙(称徳)天皇は生涯未婚を貫かざるを得ず、聖武天皇と皇后の血筋はここで絶えています。
聖武天皇の功績
功績①「墾田永年私財法を制定する」
聖武天皇は743年に墾田永年私財法を制定しています。これは「自分で開墾した田畑や土地の永久的な私有を認めた法律」でした。天然痘の大流行で多くの農民も死亡した結果、田畑の開発は十分には行われなくなり、朝廷に収められる税も減っていたのです。
墾田永年私財法の制定により、貴族や農民の開墾意欲は増加。更に開墾した田畑には税をかける事で、朝廷にも開墾側にもメリットのある体制を作り上げたのです。当時は大仏の建立も現実味を帯びていた頃であり、税の確保は超重要な事柄でした。
東大寺の大仏が建立出来たのは、墾田永年私財法の制定のおかげがある事は間違いありません。その一方で墾田永年私財法は貧富の差を産むと共に、公地公民制度の崩壊を招く事になります。
やがて藤原摂関家を中心に荘園を作り上げ、朝廷の税は激減。更には武士という存在を生み出す事にも繋がりました。墾田永年私財法は大仏建立という観点からは功績かもしれませんが、ある意味で悪法だったとも言えるのです。
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功績②「諸国に国分寺・国分尼寺を建立する」
聖武天皇は仏教の力で国を救う為、741年に国分寺建立の詔(みことのり)を出しました。国分寺(こくぶんじ)とは「聖武天皇が各国に建立するように命じた寺」の事です。
この詔で「寺院の他に七重塔を建てる事」「国司も写経を書く事」等、様々な事が決められています。
ちなみに金光明経の写経を納める寺は「国分寺」、法華経の写経を納める寺は「国分尼寺(こくぶんにじ)」と呼ばれました。そして国分寺と国分寺尼寺の建立は各国の国司に委ねられました。
詔を現在風に言えば47都道府県の知事に「立派な寺を2つ作れ」と言ったところでしょうか。朝廷の金銭的な支援はあったものの、国分寺の建立の負担は甚大。747年に「国分寺造営督促の詔」が出されて、ようやく建立は軌道に乗りました。
ちなみに大和国の東大寺が総国分寺、法華寺が総国分尼寺となっています。つまり東大寺は国分寺でもあるのです。現在も各都道府県に国分寺と名のつく寺はあるものの、これらは当時の寺ではありません。
ただ宗派が変わったり、再興される等して国分寺は今に受け継がれています。聖武天皇が国分寺に込めた思いを私達も触れる事が出来るのです。
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