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聖武天皇とはどんな人?生涯・年表まとめ【したことや家系図も紹介】

聖武天皇は奈良時代に即位し、東大寺へ大仏を建てた人物です。当時は天然痘(てんねんとう)の流行や謀反(むほん)が頻発し社会は乱れていました。聖武天皇は大仏建立以外にも何度も遷都(せんと)を行い、相次ぐ災いから都を守ろうとしたのです。

鎌倉時代に書かれた聖武天皇の肖像画
出典:Wikipedia

その他にも、聖武天皇は「藤原摂関家」や「武士」を生み出すきっかけになった「墾田永年私財法」を制定しています。遷都に大仏の建立、さまざまな法律を制定するなど、古代史に与えた影響は計り知れません。

今回はそんな聖武天皇の生涯を年表にまとめつつ、性格や功績、人物像に迫っていきます。

聖武天皇とは?生涯をダイジェスト

名前聖武天皇
幼名は首親王(おびとしんのう)
誕生日701年(大宝元年)
没日756年6月4日
(天平勝宝8年5月2日)
生地藤原京
没地京都
配偶者光明皇后
埋葬場所佐保山南陵(現・奈良県奈良市)
皇室の紋章
出典:Wikipedia
  • 701年 (大宝元年) 生誕
  • 707年 (慶雲4年)父・文武天皇が崩御
  • 724年 (神亀元年) 天皇に即位
  • 729年 (神亀6年) 長屋王の変勃発後に光明子が皇后になる
  • 737年 (天平9年) 天然痘の大流行
  • 740年 (天平12年)平城京から都を転々とする
  • 741年 (天平13年) 国分寺建立の詔を発令
  • 743年 (天平15年) 東大寺盧舎那仏像の造立の詔
  • 749年 (天平勝宝元年) 阿倍内親王に譲位する
  • 756年 (天平勝宝8年) 宝算56で崩御

聖武天皇がしたことや生きた時代、家族

奈良時代に即位した第45代天皇

小泉淳作による聖武天皇の肖像画
出典:万葉集その七百 (帝王聖武)

聖武天皇は奈良時代中期の724年に即位した天皇です。父・文武天皇は707年に崩御するものの、文武天皇の後継になる皇子は首親王(後の聖武天皇)しかいませんでした。

文武天皇の祖父は壬申の乱で大友皇子に勝利した天武天皇。聖武天皇が成人になるまでの間、他の勢力に皇位が回らないようにする為、元明天皇(文武天皇の母)、元正天皇(文武天皇の姉)が即位しています。そして聖武天皇は724年、24歳で天皇となりました。

聖武天皇の治世は様々な厄災が訪れます。737年には日本の人口の⅓が亡くなる「天然痘の大流行」が発生し、740年には藤原広嗣が九州で乱を起こしました。当時は「天変地異が起こるのは為政者が悪いから」という思想があり、聖武天皇は悩んでいました。

聖武天皇は仏教の力で国を救おうとした
出典:Wikipedia

そこで聖武天皇は仏教の力で国を救う事を考えます。741年に「国分寺建立の詔」を、743年には「東大寺盧舎那仏像の造立の詔」を発令。全国に仏教の教えを受けた建造物が作られていきます。

最後まで聖武天皇の仏教への思いは変わる事はなく、749年に出家。756年に56歳で崩御(ほうぎょ)しています。

崩御とは
「崩御」とは、天皇陛下や皇太后、皇后などの特別な位置にいる人が亡くなった時に用いる言葉です。
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東大寺に大仏を建立する

東大寺盧舎那仏像
出典:Wikipedia

聖武天皇は743年に「東大寺盧舎那仏像の造立の詔」を発し、大仏の建立を命じます。一般的には「東大寺にある奈良の大仏」として知られていますね。大仏の建立は745年から本格的に始まり、752年に大部分が完成。この年に開眼供養会が行われています。

当時は各地で災害が起きており、聖武天皇は仏教の力で日本を平和に導くつもりだったのです。国家の安寧の名のもと260万人もの人が集められ、建造費は現在の価格で約4657億円と言われています。大仏の高さは建設当時で15.8mと5階建てビルに相当するのです。

大仏の建立には400kg以上の金、2.5tの水銀、銅に至っては500tもの材料が使われました。作業中の事故や水銀中毒により多くの人命が失われ、多くの山々の環境も破壊されました。ただ当時は「大仏を作る事」こそが国家を治める為に必要と思われていたのです。

大仏の広背と支え
出典:Wikipedia

実は大仏は何度も焼失や劣化により建て直されています。855年の地震で首が落下し、1180年には平重衡による兵火で大部分が延焼。1567年には松永久秀と三好三人衆軍による戦いで焼失しています。私達が見る事の出来る大仏は1709年に復興されたものです。

ただ現在の大仏が修繕で入れ替わったのではなく、「大仏が安置される台座」は当初のものが残されています。台座には釈迦如来像や蓮華蔵世界を表した図様が描かれています。東大寺を訪れた時には「奈良時代の人々の想い」を汲み取って欲しいものです。

繰り返し遷都を行う

平城京の復元模型
出典:Wikipedia

聖武天皇は740年に当時の首都・平城京(現・奈良県奈良市)から恭仁京(現・京都府木津川市)に遷都しました。遷都とは「首都を別の場所に移す事」であり、現在に至るまで日本でも行われています。聖武天皇が特別だったのは「遷都の頻度」です。

まず740年に平安京から恭仁京へ遷都。その間に「国分寺建立の詔」「東大寺盧舎那仏像の造立の詔」「墾田永年私財法」等の歴史的な施策をしています。しかし744年には未完の恭仁京を捨て、難波宮(現・大阪府中央区)に遷都をするのです。

紫香楽宮阯碑
出典:Wikipedia

更に745年には紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市)へ遷都を断行。ただ遷都にかかる費用や官人の負担は聖武天皇の治世に対する不満に変わります。同年には元々の首都である平城京に戻ります。実に5年間で4回の遷都でした。

専門家の中で「度重なる遷都の理由」は一致しています。それは「社会不安と政界の混乱を収束させる為」でした。当時は天然痘の大流行や藤原広嗣の乱などの社会的混乱が続き、聖武天皇はそれを恐れていたと言えます。

私達には馴染み深い聖武天皇ですが「大仏建立」に「度重なる遷都」と当時の国民は割と大変だった事が分かりますね。

聖武天皇の妻や娘について

光明皇后
出典:Wikipedia

聖武天皇には光明皇后という正妃と4人の側室がいました。光明皇后の父親は藤原不比等で、中臣(藤原)鎌足を父に持ちます。藤原家の人物が皇后になる事はこの時代では稀な事で、背景には藤原家の画策があったのです。

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ちなみに4人の側室はいずれも藤原不比等や光明皇后の母親・県犬養三千代の血縁者であり、聖武天皇の外堀は少しずつ埋められていたのです。

光明皇后の間には皇女の阿倍内親王と皇子の基王が生誕するものの、基王は1歳で崩御。阿倍内親王は女性の皇太子として749年に孝謙天皇として即位します。ちなみに側室の県犬養広刀自の皇子として安積親王が生誕するものの、謎の死を遂げています。

孝謙天皇は後に称徳天皇として、二度目の皇位に就くものの770年に死去。当時は男系の血筋が重要だった時代であり、女性天皇の子供は天皇になる事は出来ません。孝謙(称徳)天皇は生涯未婚を貫かざるを得ず、聖武天皇と皇后の血筋はここで絶えています。

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