聖武天皇とはどんな人?生涯・年表まとめ【したことや家系図も紹介】

功績③「天平文化を主導し、数々の遺品を残す」

正倉院正倉
出典:Wikipedia

天平文化とは「平城京を中心に奈良時代に花開いた貴族・仏教文化」です。この文化の構築に多大な影響を与えたのが聖武天皇でした。国分寺や国分尼寺、奈良の大仏を筆頭に、様々な仏教建築が作られました。

これらの仏教建築には民衆の力も必要です。聖武天皇は国民に支持されていた行基を大僧正として迎え入れ、民衆の支持を得る事で様々な建築物を建立していきました。ちなみに「万葉集」「懐風藻」などの詩歌が台頭したのも天平文化の頃です。

ちなみに東大寺大仏殿の北北西には「正倉院」があります。この中には聖武天皇や光明皇后の遺品が収容され、1998年にユネスコの世界遺産に登録されました。正倉院は絵画や書跡、漆工などの古代の文化財の宝庫であり、奈良時代の文化を学ぶ上で非常に重要なものです。

正倉院に遺品が納められたのは756年。光明皇后が聖武天皇の七回忌に、東大寺の大仏に遺品を奉献したのが始まりでした。聖武天皇が主導した天平文化は正倉院の中で、今も生き続けているのです。

天平文化とは?特徴から時代背景まで簡単に解説【服装や仏像も紹介】

聖武天皇の名言

東大寺の大仏殿
出典:Wikipedia

三宝(仏、法、僧)の力で、天下が安泰になり、動物、植物など命あるもの全てが栄えることを望む

「東大寺盧舎那仏像の造立の詔」の一文です。聖武天皇は人間だけでなく、命あるもの全てに安寧の気持ちを持っていました。聖武天皇がとても優しい君主だった事が分かりますね。

私は徳の薄い身であるのに、おそれ多くも天皇という重い任務を受けている。しかし、民を導く良い政治を広めることができず、寝ているときも目覚めている時も恥ずかしい気持ちでいっぱいだ。

「国分寺建立の詔」の一文です。この時代、厄災が起こるのは為政者の徳が足りないからだとされていました。聖武天皇は「自らの天皇の資質」に疑問を持ち、悩み苦しんでいた事が分かるのです。

今後は(開墾した墾田を)私財とすることを認め、三世一身にかかわらず、全て永年にわたり収公しないこととする。

墾田永年私財法の一文を抜粋。開墾した時の私有地化という大胆や政策を聖武天皇は断行します。この一文は日本の律令制度の崩壊と、武士や藤原摂関家の始まりを示すものであり、歴史的な意義があるものと言えますね。

聖武天皇の家系図・人物相関図

聖武天皇期の天皇即位順と家系図
出典:宮内庁

こちらは家系図になります。この頃は近親者同士の婚姻は当たり前です。草壁皇子にとって元明天皇は叔母(伯母の可能性あり)で、聖武天皇と光明皇后は甥と叔母の関係です。

結果的に聖武天皇と光明皇后の唯一の皇子だった基皇子は1歳で崩御しますが、これは近親婚が招いた可能性もあります。後述しますが、この時の聖武天皇の悲しみが「大きな混乱」の引き金になるのです。

聖武天皇にまつわる逸話

逸話①「母に初めて会ったのは37歳の時」

聖武天皇の母 藤原宮子
出典:Wikipedia

聖武天皇の母親は藤原宮子で、藤原不比等の娘とされます。宮子は701年に首親王(後の聖武天皇)を産みますが、心身障害に陥ったとされ、聖武天皇に会う事はありませんでした。2人が初めて会うのは737年。聖武天皇が37歳の時でした。

この時代は実母が育児をするのではなく、乳母が育児をするのが普通です。聖武天皇の育児に宮子が関われない事について、特に困る事はありません。とはいえ36年もの間、親子が一度も面会しないのは異常事態でした。

ちなみに宮子は「不比等の娘ではなく、紀州の海女を不比等が養子にした」という説があります。これが事実なら聖武天皇は「海女の血筋」をルーツに持つ事になりますが、真相は分かりません。

ちなみに宮子は僧侶・玄昉に1回看病してもらっただけで、心身障害は軽快。宮子は737年に聖武天皇と面会を果たし、754年まで天寿を全うします。しかし1度の看病で病気が軽快するのも不思議ですし「海女伝説」も謎が残ります。

聖武天皇とその周囲の人物については常に謎がつきまとうのです。

逸話②「祟りを恐れた?長屋王の変と天然痘」

聖武天皇の義兄だった藤原四兄弟(藤原四子)
出典:Vol.10 藤原氏③~藤原四兄弟

仏教を厚く信仰した聖武天皇ですが、その発端は「長屋王」の祟りを恐れた為だとされます。長屋王は天武天皇の第一皇子・高市皇子の長子で、血縁的にも皇位継承権を持つ事から絶大なる権限を持っていました。

長屋王の存在を疎ましく思っていたのは、藤原不比等の息子である藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)でした。729年の事ですが、彼らは長屋王に「謀反の疑いあり」と無実の罪を着せたのです。

昨年に基皇子が崩御していた聖武天皇は讒言を受け長屋王の邸宅に兵を派遣。長屋王は翌日に自殺しました(長屋王の変)。半年後に藤原四兄弟の兄妹・安宿媛(あすかべひめ)が皇后になる事が決まります。安宿媛はこれまでに紹介した光明皇后の事ですね。

長屋王を自殺に追い込んだ藤原四兄弟ですが、737年の天然痘の大流行で皆が病死。世間は疫病の蔓延を「長屋王の祟り」と恐れました。聖武天皇は最終的に長屋王を死に追いやった身として、長屋王の祟りを恐れる事になるのです。

逸話③「実は真面目で神経質?直筆の文字から見える性格」

数々の遺品を残した聖武天皇ですが、その中には直筆の書も含まれています。それは東大寺の大仏に献納された「雑集」と呼ばれるもの。雑集を書いた時の年齢は31歳。特筆すべきは書物の全文の長さ2が1m、行が1205行という膨大な文字数である事です。

更に雑集の文字は横列も整然と揃い、細く鋭く丁寧に書かれており、末尾に至るまで手を抜いた様子がありません。この事から聖武天皇は真面目で神経質。そして妥協を許さない性格だった事が分かります。

光明皇后の直筆の文字
出典:Wikipedia

ちなみに光明皇后の直筆は「楽毅論」という書物に残されています。こちらは力強さと大らかさが感じられる文体ではあるものの、行間や文字の大きさも不揃いです。聖武天皇とは正反対の筆跡をしています。

政略結婚とはいえ、2人は仲睦まじい夫婦でした。互いの足りない部分を補える関係だった事が、互いの筆跡からも分かるのです。

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