アパルトヘイトとは?意味や影響、撤廃までの道のりも簡単に解説

アパルトヘイト政策に対する日本の対応

アパルトヘイト時代の最大貿易国は日本!?

アパルトヘイト政策は、国連をはじめとする多くの国々から批判を受けていました。しかし、そんな中で日本だけは南アフリカと貿易を続けます。

当時の南アフリカにおける最大の貿易国にまでなり、アパルトヘイトが施行されている中でも日本人だけは「白人ではない人種」ではなく「名誉人種」とされました。つまり、経済的に援助を受けていることからアパルトヘイト施行後であっても、特別に白人と同じ扱いを受けられたのですね。

しかし、人種差別的な政策を行っていると知っているにも関わらず国交を続けているとして、日本は世界から非難の目を向けられます。国連の反アパルトヘイト委員会にいたっては、日本に対して強く批判の意を示しました。

アパルトヘイト撤廃への道のり

黒人による抗議運動とソウェトの暴動

シャープビル虐殺事件を表現した絵
出典:Wikipedia

黒人による反アパルトヘイト運動はいくつかの団体に分かれて行われました。代表的なのは、南アフリカの英雄ネルソン・マンデラが所属していた「アフリカ民族会議」です。

1949年にはマンデラ率いる3人の執行部によって、アパルトヘイトに対する抗議運動が指揮されました。こうした抗議運動に対して南アフリカ政府は活動家を反逆罪で訴えたり、集会を無理やり解散させる行動に出ます。

そんな中、黒人の身分証携帯を義務化した「パス法」に抗議する運動が行われました。いつまでも解散しない群衆に対して、警察官が発砲。69人が死亡し、200人近い負傷者が出ました。これをシャープビル虐殺事件といいます。

ソウェトの暴動時の様子
出典:Wikipedia

シャープビル虐殺事件をきっかけにネルソン・マンデラをはじめとする活動家は逮捕され、反アパルトヘイト運動は一旦は沈静化しました。

しかし、1968年から再び抗議運動が開始。1976年には、アフリカーンス語の教育強制に反発した暴動事件が起きました。ソウェト地区で発生したことから「ソウェト蜂起」と呼ばれるようになります。

この暴動によって、2000人が負傷し500人が亡くなります。ソウェト蜂起によって反アパルトヘイト運動は激化し、国外からも非難の眼差しが向けられるようになりました。

ネルソン・マンデラの登場

南アフリカの英雄ネルソン・マンデラ
出典:Wikipedia

国内外からの非難を受けて、政府もアパルトヘイト撤廃に意欲的になります。1989年、南アフリカ大統領に就任したフレデリック・ウィレム・デクラークは反アパルトヘイト活動家であるネルソンらを釈放。

アパルトヘイト政策に用いた数々の法律を廃止していきました。国連の安全保障理事会は「国連南アフリカ監視団」を設立。1994年に行われた全人種選挙では不正が行われないように監視をしました。

そして遂に、黒人であるネルソン・マンデラが選挙にて南アフリカ大統領に就任。長く黒人を苦しめたアパルトヘイト政策は、マンデラが大統領に就任したことで完璧に廃止されたのです。

アパルトヘイト撤廃に関して、ネルソン・マンデラは国連での演説で次のように述べています。

その歴史的変化が訪れたのは、人道に対するアパルトヘイト罪の排除にかかわってきた国連の多大な努力によるものである

反アパルトヘイト運動を指揮した活動家だけでなく、国連もアパルトヘイト撤廃に大きな貢献をしたことが伺えますね。

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国外からのアパルトヘイト批判の声

イギリスではバスにアパルトヘイト反対の広告が掲載
出典:Wikiwand

これまでにも述べてきたように、アパルトヘイト政策に対する非難は南アフリカ国内だけでなく諸外国からもあがっていました。

特に、国連はアパルトヘイトを非人道的であると糾弾。1950年代からアパルトヘイトを撤廃するように呼びかけています。特別委員会の設置や南アフリカの武器の輸出入を禁止するなど、数々の対策を行います。

さらに、アパルトヘイト批判はスポーツ界にも影響を与えました。1960年のローマオリンピック以降、南アフリカはオリンピックから追放。また、イギリスにおけるラグビー南アフリカ代表に対する抗議デモが話題を呼びました。

黒人の選手を排除したラグビーチームに対して、イギリスの反アパルトヘイト運動家たちがデモを開始。ラグビー選手たちにアパルトヘイトの非道さを理解してもらいたい一心で行われた運動でした。

オーストラリアのチームと対戦する南アフリカのラグビーチーム
出典:Wikiwand

しかし、試合会場にて警官やクラブチームが雇った護衛がデモ隊を攻撃。100人もの人々が負傷しました。南アフリカ国内だけでなく、諸外国でもアパルトヘイト政策の被害が出た事件です。

これをきっかけとして、国際社会は国連同様にアパルトヘイトの非道さに気づきます。1971年に国連は諸外国と南アフリカのスポーツ交流を禁止。1980年代になると経済制裁が始まり、文化交流も禁止されました。

国連や諸外国の批判を受けて、1994年にようやくアパルトヘイトは撤廃されます。南アフリカで反アパルトヘイト運動を続けた人々だけでなく、国連をはじめとする国際社会の力で人種差別に打ち勝ったのです。

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2 COMMENTS

藤田孝志

こちらにも飛んできました。
実は、ちょうど今、1年生の地理で「アフリカ」を授業していて…欧米による植民地支配、独立後の民族対立・内戦からの難民問題(ルワンダの虐殺を例に)を教えたところで…明日、「アパルトヘイト」を授業する予定です。こちらの「記事」を読ませていただき、授業内容を構成しました。ありがとうございました。
さて、中学校という年齢の問題もありますが、教科書記述も人権問題や戦争・内戦・国家間の対立など以前に比べれば詳しく記述されるようになりましたが、それでも歴史背景や要因・影響などは一面的・画一的で表層のみですから生徒の理解も薄いものになります。時間の制約もあるなかで、それでも「事実」と「背景」「影響」はきちんと押さえながら…先で考えるための視点と歴史認識だけは教えていくつもりで…教科書無視の授業をしています。
たとえ中Ⅰとはいえ、整理して教えると理解しますね。感受性の豊かな生徒は「理不尽さ」には気づきます。そして自分ならどうするかを考えます。
歴史では…改訂されては来ましたが、それでも世界史の分野が実に少なく…補いながら(同時代史の視点から)把握させています。正直、世界史を知らずに大学生や大人になる今の子どもがグローバル社会で大丈夫かと心配になりますね。
私にとっても大学受験での「世界史」は全体把握と暗記でした。本格的に学んだのは大学時代、一般教養で「イギリス社会史」の講義で、岩波書店の「講座世界史」のイギリスを読まされてレポートを書いた際に、市民革命の流れに興味を持ち、マックスウェーバーにはまって…一夏で「講座世界史」を全巻読破して…ようやくわかった感じがしました。特にわかりやすかったのは、G・M・ Trevelyan 「ENGLISH SOCIAL HISTORY」でした。(みすず書房から訳書もありますね)
話が逸れましたね。明日は少し熱を入れて「アパルトヘイト」を語りたいと思います。

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岩野祐里

藤田さんへ
レキシル記事の「アパルトヘイト」を読んでいただきありがとうございます!さらにコメントまでしていただいて、とても嬉しいです。しかも、なんと私の記事をもとに授業内容を構成してくださったとのこと!身に余る光栄でございます。生徒さんたちに少しでも分かりやすく「人種差別」や「人権問題」などが伝われば幸いです。

私も中学生の時には「受験勉強」としての世界史を学んだ記憶があります。藤田さんと同じく、大学生になってから改めて「視野を広げる世界史」を学びました。中学生という若い時期から「事実・影響・背景」をふまえた世界史が学べたら、大人になったとき世界を見る視野が広がっていると思います。明日の藤田さんの授業で、多くの生徒さんが「アパルトヘイト」による人種差別の悲惨さや人権問題に関する人々の動きに注目してくださることを祈っています。

改めて、この度はコメントいただきありがとうございます!今回ご紹介いただいた「ENGLISH SOCIAL HISTORY」、とても気になるので一度読んでみますね! noteでの藤田さんの記事も少しずつ楽しみに読ませていただいております。これからもよろしくお願いいたします。

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