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日本事件史上一番恐ろしい事件20選【時系列順に紹介】

「日本で起きた一番恐ろしい事件って何だろう?」
「どんな事件だったのか詳しく知りたい!」

日本は治安が良いと言われる国ですが、現在に至るまで凄惨な事件が数多く起きてきました。ただ、被害者の数や事件の凄惨さなど、「恐ろしい」と思う事件は人によって異なるでしょう。

そこでこの記事では、戦後以降の日本で起きた下記20の恐ろしい事件を時系列順にまとめました。

  • 1944年〜1948年:寿産院事件
  • 1948年:帝銀事件
  • 1971年〜1972年:山岳ベース事件
  • 1972年〜1983年:勝田清孝事件
  • 1982年:日本航空350便墜落事故
  • 1988年:女子高生コンクリート詰め殺人事件
  • 1994年:井の頭公園バラバラ殺人事件
  • 1994年:大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件
  • 1995年:地下鉄サリン事件
  • 1997年:神戸連続児童殺傷事件
  • 2000年:世田谷一家殺害事件
  • 2001年:附属池田小事件
  • 2002年:北九州監禁殺人事件
  • 2008年:秋葉原通り魔事件
  • 2008年:大阪個室ビデオ店放火事件
  • 2012年:尼崎事件
  • 2016年:相模原障害者施設殺傷事件
  • 2016年:大口病院連続点滴中毒死事件
  • 2017年:座間9人殺害事件
  • 2019年:京都アニメーション放火殺人事件

恐ろしいとされる事件は、当時の世相や社会問題に深く関わるものばかりです。事件が起きた背景も踏まえ、1つずつ解説していきます。

1945年〜1999年に起きた日本事件史上一番恐ろしい事件

他殺や自殺による死亡者数の推移
出典:社会実情データ図録

1945年8月に日本は終戦を迎えましたが、社会的な混乱はその後も続きました。1945年の殺人件数は689件だったものが、1955年には2119件まで増加。その後は徐々に減少に転じました。それでも定期的に「恐ろしい事件」は起きています。

1944年〜1948年:寿産院事件

寿産院事件で被害に遭った母子の様子
出典:Wikipedia

1948年1月12日に発覚した乳幼児の大量殺人事件です。新宿にあった寿産院では乳幼児の凍死、餓死が相次いでいました。ミカン箱に入った乳幼児の遺体を運ぶ葬儀屋に事情聴取をした事で事件が発覚。正式な犠牲者は不明なものの、85人から169人の間とされます。

寿産院を経営していたのは産婆経験のある石川ミユキ(当時51歳)と、夫の猛(当時53歳)です。彼らは1944年から1948年の間に新聞広告等で多く乳幼児を集めました。それは親から貰う養育費や、都から支給される補助金や配給品の着服や横流しをする為です。

護送される被疑者
出典:Wikipedia

太平洋戦争期や戦後直後の混乱や、ベビーブームの中で子育てが困難な親はたくさんいました。石川夫妻はそんな親に救いを差し伸べるフリをしたのです。石川夫妻の殺人罪は証拠不十分として無罪。結果的にミユキは懲役4年、猛は懲役2年と軽いものでした。

現在、寿産院のあった場所は空地になっています。乳幼児の遺体は現場近くの宗円寺に土葬され、後に無縁塔に移され合葬されました。子供たちの未来を奪った決して許される事ではありません。

1948年:帝銀事件

事件直後の帝国銀行・椎名町支店
出典:Wikipedia

1948年1月26日、豊島区の帝国銀行・椎名町支店で発生した銀行強盗殺人事件です。閉店直後の支店に「とある男」が現れ、「近くの家で集団赤痢が発生したので、予防薬を飲んで欲しい」と嘘を言い、行員と用務員の一家に青酸化合物を飲ませました。

16人が青酸化合物を飲み、12人が死亡。犯人は現金と小切手を盗み逃走しました。捜査本部は捜査線上に浮上した「平沢貞通」を8月21日に逮捕します。平沢は激しい拷問の末、1ヶ月後に自供。別件の類似事件も合わせて逮捕されたのです。

平沢貞通は冤罪説も根強い
出典:Wikipedia

平沢は過去に詐欺事件を繰り返しており、出所不明の大金を持っている等、怪しい点も多々ありました。ただ決め手の証拠は「平沢の自白」のみで、平沢は公判では無罪を主張。1955年に死刑が確定するものの、刑の執行がされぬまま1987年に獄中死しています。

「平沢が無罪だった」という説も根強く、刑が執行されなかった理由の一つとされます。取り調べでは激しい拷問が行われた事、当時日本を統治していたGHQが犯行や捜査に介入した説もあり、闇の深い事件の一つです。

仮に平沢が犯人ではなく、32年間刑死に怯えながら獄中生活を送っていたとするなら…。実に恐ろしい話です。

1971年〜1972年:山岳ベース事件

「総括」で死んだ同志を埋めた現場
出典:jiji.com

1971年〜1972年にかけて「連合赤軍」が同志に行ったリンチ殺人事件です。冷戦が本格化する1960年代、日本では「新左翼」と呼ばれる過激な共産主義を主張する一派が台頭。彼らは暴力革命を推進し、「よど号ハイジャック事件」等の事件を起こしています。

1971年に新左翼により「連合赤軍」が発足すると、彼らは警察の目をかいくぐる為、群馬県の山中に「山岳ベース」というアジトを作ります。アジトでは「思想の違い」を修正する為の「総括」が行われますが、徐々に過激さを増していきました。

山岳ベース事件を起こした連合赤軍メンバーは、後に浅間山荘事件を引き起こす
出典:映画を100倍楽しむ方法

「総括」を要求されたメンバーは暴力を受け、食事を満足に与えられず、極寒の山中に放置。僅か2ヶ月で29人中12人が死亡します。内2人は連合赤軍の裏切り者として殺害されます。残されたメンバーのうち、逃走した者が「浅間山荘事件」を起こしました。

「山岳ベース事件」と「浅間山荘事件」は世間に衝撃を与え、新左翼という考えは衰退します。先鋭化する思想は時として大きな犠牲を生む事、過去に共産主義が国内に大きな影響を与えていた事を私達は忘れてはいけません。

1972年〜1983年:勝田清孝事件

22人を殺害したとされる勝田清孝
出典:MURDUR 連続・大量殺人鬼マニア

連続殺人犯・勝田清孝が1972年から1983年にかけて犯した連続殺人事件の総称です。勝田は22人の殺害をほのめかしたものの、立証されたのは8人でした。この8人だけでも連続殺人犯としては戦後では最多。勝田は日本事件史上、最悪の連続殺人犯の1人です。

勝田は京都で裕福な農家の長男として生まれますが、学生時代から窃盗を繰り返していました。昼は真面目な消防職員、夜は窃盗犯という二面性を持っていたのです。

やがて勝田は1972年に窃盗で侵入した家の女性を殺害。1977年には現金輸送中の銀行員を射殺する等、銃を使用した殺人を行います。最終的に勝田は1983年1月31日に銀行強盗に失敗して逮捕されます。

逮捕後、勝田の過去の殺人が次々と明らかになった
出典:地球ジャック

勝田が窃盗を繰り返す頃、日本は高度経済成長を迎えていました。「消費が美徳」の時代に、勝田は車や愛人との派手な生活を謳歌する為、犯罪を重ねたのです。清田は車を使用し広域で犯罪を犯しており、一連の事件は高度経済成長を象徴するものでした。

勝田は1994年に死刑判決を受け、2000年に絞首刑となります。これは20世紀の最後に行われた絞首刑でした。

1982年:日本航空350便墜落事故

墜落した機体
出典:Wikipedia

1982年2月9日、日本航空350便が羽田空港沖に墜落。乗員乗客174人中24人が死亡し、149人が重軽傷を負う大惨事となりました。この事故は航空機の故障等ではなく、機長の「統合失調症」によるパニックが原因だったのです。

機長は事故の6年前から心の病を発症。一度休職するものの、職務復帰後は「問題なし」とされていましまが、実際は心の病は彼を蝕んでいました。機長は航空機を最終進入する最中、突如滑走路手前で離陸。航空機は海水に着水し、機体は2つに分裂しました。

事故を起こした機長
出典:NADALOG

事故の顛末を記録した「ボイスレコーダー」の中で、副操縦士は「キャプテン、やめてください!!」と機長の暴走を止めようとした事が分かっています。この言葉が世間に与えた影響は大きく、当時の流行語になりました。

問題のある機長を乗務させ続けた日本航空には批判が高まり、パイロットの検査基準が改められました。昨今は「心の病」がクローズアップされている時代です。同じ事件を繰り返さない為にも、社会全体が心の病を持つ人をフォローする体制が求められています。

1988年:女子高生コンクリート詰め殺人事件

残忍なリンチは世間に衝撃を与えた
出典:右のような左のような

1989年1月に、東京湾の埋め立て場からコンクリート詰めにされた女子高生の遺体が見つかったことで発覚した事件です。この事件で逮捕されたのはいずれも、当時の少年法が適用される16〜18歳の少年4人でした。

女子高生は前年の11月に誘拐されたのち、強姦され、暴行を繰り返されていました。女子高生が抵抗しようとすると激しいリンチでねじ伏せ、最後は栄養失調もあいまって死亡したのです。遺体の処理に困った少年たちは、ドラム缶に女子高生の遺体を詰め、コンクリートで固めて東京湾の埋立地に遺棄したのでした。

この事件は、当時の少年法改正への世論を強めた事件としても知られています。結局、主犯格の4人には刑法が適用され、最大で懲役20年の実刑判決が言い渡されました。

犯人達は出所後に再び犯罪を犯した
出典:ギリギリバサラ

ちなみに主犯の4人のうち3人は、振り込め詐欺、拉致監禁傷害事件、殺人未遂容疑で釈放後に逮捕されています。出所後に仕事や社会に適応できずに再度犯罪に手を染める元少年も多く、「更生」というものに成果があるのか、考えていく必要があるでしょう。

1994年:井の頭公園バラバラ殺人事件

事件のあった井の頭恩賜公園
出典:Wikipedia

1994年4月23日、東京三鷹市の井の頭恩賜公園にあるゴミ箱に人間の足首が捨てられていた事が発覚。警察が公園一帯を捜索すると、計27カ所のゴミ箱に手足や胴体の一部が見つかります。被害者は近所に住む一級建築士の男性と判明しました。

遺体は公園のゴミ箱に捨てられるサイズに切り取られ、血液は全て抜き取られていました。頭部などは見つかっていません。遺体の切り口が異なる事から複数犯の説もありますが、2009年に時効を迎え、事件は迷宮入りとなります。

遺体の一部が捨てられたゴミ箱
出典:誰も知らないらぽっぷの世界

この事件は謎が多く、殺害された理由はわかっていません。別人と間違えられて殺害された、交通事故を隠蔽する為だった、某宗教施設と関わりがある等、様々な説が錯綜しています。

ネット上では語られる事の多い事件ですが、事件の三日後に264人の死者を出す中華航空140便墜落事故が発生。新たな情報にも乏しかった為、あまり報道される事はありませんでした。

1994年:大阪・愛知・岐阜連続リンチ殺人事件

事件の概要
出典:午後のアダージョ

1994年9月28日から10月8日にかけて大阪、愛知、岐阜で不良少年による凄惨なリンチ殺人事件が起きました。一連の事件で3人の成人と7人の未成年が逮捕されました。犯人達は11日間で4人を殺害した他、1人を負傷させています。

被告3人を含め、加害者達は社会的に劣悪な環境で育ちました。彼らは裁判で「自分達は未成年だから死刑にならない」と発言。傍若無人な態度を繰り返していました。

彼らに死刑判決が下された時、テレビでは大きな話題となった
出典:怖い話 ネット

2005年に主犯に死刑判決が下された時、新潮社は彼らの実名と写真を報道したのです。少年に死刑判決が下されたのは、1989年の名古屋アベック殺人事件と1994年の市川一家4人殺害事件に続き、3件目でした。

当時はまだ被害者に対する支援も未熟でした。被害者の遺族は初公判の日程や加害者の名前すら教えられる事はありませんでした。被害者遺族に「加害者が少年の場合、保護者の名前と住所が通達される」のは、今回の事件から2年後の事です。

1995年:地下鉄サリン事件

サリン捜索の為に完全装備で地下鉄に入る消防庁の職員
出典:毎日新聞

カルト教団「オウム真理教」が起こした事件は数しれませんが、そのなかでも群を抜いて凶悪な事件が「地下鉄サリン事件」です。

1995年3月20日、帝都高速交通営団(現:東京メトロ)で運転中だった地下鉄の車内で、神経毒であるサリンが教団の実行役により散布されました。この事件での死者は14名、負傷者は6400名以上とされ、日本史上最悪の無差別殺人事件といわれています。

また、地下鉄サリン事件は、海外でも大きく報道され、無差別テロ事件として世界を恐怖に陥れたのです。

オウム真理教の教祖・松本智津夫
出典:産経ニュース

地下鉄サリン事件は坂本堤弁護士一家殺害事件、松本サリン事件と並ぶ「オウム三大事件」とよばれています。また、この事件後、不審物を早期発見するために駅からゴミ箱が撤去されるなどの対処がとられるようになったのです。

1997年:神戸連続児童殺傷事件

最初の事件現場
出典:Wikipedia

容疑者は14歳の中学生だった。社会に大きな衝撃をあたえ、実際に少年法改正のきっかけになったのが、「神戸市連続児童殺害事件」です。犯人が自称した名前から「酒鬼薔薇事件」ともよばれています。

「酒鬼薔薇聖斗」と名乗る人物による、小学生2名が殺害された事件。警察は当初、脅迫状の内容などから、成年を容疑者として捜査をしていました。しかし、実際に逮捕されたのは、地元の当時中学2年生であった少年だったのです。

この事件と関係があるかは不明も、1998年1月から3月にかけて少年による刃物を使った事件が多発。少年法でこの少年が守られる事に納得がいかない人もたくさんいました。結果的にこの事件を経て、少年法は改正されます。

後に少年は本を出版した
出典:ほっとにゅうす

少年は後に出所し、2004年の時点では「とある団地で更生職員と生活していた事」が判明しています。2015年には事件を起こす過程から、社会復帰に至る過程を綴った「絶歌」が出版され、大きな議論を呼びました。元少年の所在は現在では不明です。

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