後藤象二郎とはどんな人?生涯・年表まとめ【龍馬との関係や大政奉還、子孫について紹介】

後藤象二郎は幕末の土佐藩の政治に関与して、藩内の意見を統一すると共に、大政奉還建白書を幕府に提出した人物です。大政奉還とは徳川家が政権を朝廷に奏上するものであり、元々は坂本龍馬をはじめとした当時の有識者が構想したものでした。

後藤はこれらの意見をまとめ、土佐藩の立場を大きく引き上げる事に成功したのでした。明治政府は薩長土肥の出身者が役職を占めます。土佐藩がこれらの中枢に入り込む事が出来たのは幕末における後藤の功績が大きいのです。

土佐藩時代の後藤

後藤象二郎は坂本龍馬との関わりも深く、幕末を題材にした大河ドラマ等では頻繁に出てきます。しかし明治以降の活躍については知らない人も多いのではないでしょうか?後藤は龍馬亡き後も明治政府で政治に携わった他、自由民権運動を主導する等、精力的に活動を続けました。後藤の生涯は実に波乱万丈であり、それが後藤の魅力に繋がっているのかもしれません。

今回は坂本龍馬を学ぶうちに後藤象二郎の魅力に気づき、様々な大河ドラマを観てきた筆者が後藤象二郎の生涯について紹介します。

この記事を書いた人

Webライター

吉本 大輝

Webライター、吉本大輝(よしもとだいき)。幕末の日本を描いた名作「風雲児たち」に夢中になり、日本史全般へ興味を持つ。日本史の研究歴は16年で、これまで80本以上の歴史にまつわる記事を執筆。現在は本業や育児の傍ら、週2冊のペースで歴史の本を読みつつ、歴史メディアのライターや歴史系YouTubeの構成者として活動中。

後藤象二郎とはどんな人?生涯ダイジェスト

明治時代の後藤象二郎

名前後藤象二郎
誕生日1838年4月13日
没日1897年8月4日
生地土佐国高知城下片町(現高知市)
没地神奈川県箱根
配偶者後藤磯子(前妻)・雪子(後妻)
埋葬場所青山霊園(東京港区)

後藤象二郎は1838年に土佐藩士の家に生まれました。幼少期に父が他界し、土佐藩の藩政を務める親戚筋の吉田東洋に預けられて育ちます。1864年より土佐藩の政治に参加し始め、藩主であった山内容堂の片腕として活躍するようになりました。

後藤は1867年、将軍は朝廷へ政権を返上するべきだとする大政奉還論を唱え、山内容堂を通じて建白書を第15代将軍徳川慶喜に提出しました。慶喜はこの意見を受け入れて大政奉還を天皇に上奏し、江戸幕府は終わりを迎えることになりました。

征韓論争により、後藤象二郎以外にも西郷隆盛や板垣退助なども参議を辞任して下野した。
出典:wikipedia

明治政府では要職に就いていた後藤でしたが、朝鮮の鎖国政策を武力で正し、国交を開かせようという征韓論争に敗れて下野しました。その後、板垣退助と共に国会解説を要求する民撰議院設立建白書を提出し、自由党の結成に加わりました。1887年には、反政府派をまとめようとする大同団結運動を展開します。

戦前、芝公園にあった後藤象二郎の銅像
出典:国立国会図書館

1822年に黒田清隆内閣に入閣後は逓信相、農商務相を歴任して、議会での多数派工作に力を尽くしましたが、1897年に心臓病で亡くなりました。葬儀では幼馴染であった板垣退助が追悼の演説を行っています。板垣が発起人となって後藤の銅像が建てられましたが、太平洋戦争の金属供出により撤去されています。

後藤象二郎の性格や子孫

新たなる国作り?大政奉還建白書を提出

「大政奉還図」邨田丹陵 筆

大政奉還とは徳川将軍家が天皇に政治の権限を奏上する事です。これは武力を用いてでも倒幕を目指す薩摩や長州に先手を打ち「もう倒幕相手の幕府は存在しない」と攻撃をかわす目的がありました。

大政奉還は朝廷に政権を奏上しつつ、実質的には上下両院の設置による議会政治を想定しています。幕府が消滅しても朝廷に政権運営能力はなく、実際の政治は徳川家が行い、徳川家の権威は保たれる事が想定されました。

後藤は大政奉還建白書を土佐藩の藩政を掌握していた山内容堂に提出。容堂が建白を徳川慶喜に伝える事で大政奉還が実現したのです。そして大政奉還を進言した後藤や容堂は大いに賞賛されました。

結果的にはその後に起きた王政復古の大号令、その後の戊辰戦争により徳川将軍家は政治の場から姿を消してしまいます。新たなる国作りは明治政府に託される事になったのでした。

多くの人に慕われた豪快な性格

1891年頃の福沢諭吉

後藤は細かい事にこだわらない豪快な性格でした。養父の敵である龍馬と意気投合した他、新撰組の近藤勇に刀を向けられた時に、笑顔を見せて刀を納めさせ今後の親交を約束させています。

後藤と直接会った人達の多くは後藤の事を高く評価しており、人間的魅力に溢れていたようです。同世代の人々は彼をこのように評しています。

坂本龍馬「後藤は実に同志にて、人のたましいも志も土佐国中で外にあるまいと存候」

福沢諭吉「非常大胆の豪傑、満天下唯一の人物は後藤伯だけである」

明治期の後藤は藩閥政治に対抗して大同団結運動を立ち上げたと思えば、黒田清隆内閣に入閣する等、どっちつかずの行動をしています。その一貫性のなさから、後藤の人気は龍馬等に比べると一歩及びません。

ただそれらの行動は藩閥や政党等、立場にこだわらずに行動した事の裏返しあり、豪快な性格から来ているのかもしれません。

子孫は実業家だらけ!実は岩崎弥太郎も親戚だった

後藤象二郎と親戚関係にあった岩崎弥太郎

後藤は1人目の妻、磯子との間に二男二女(一人夭折)を授かりますが、磯子は若くして亡くなりました。その後、芸者の雪子と結婚し二男四女(二人夭折)を授かっています。

以下の人達は後藤の子供です。

後藤猛太郎
  • 後藤 猛太郎:後藤の次男。日本で初めて南西諸島を冒険し、日本活動フィルム会社の初代社長を務めた。
  • 岩崎早苗:後藤の長女。岩崎弥太郎の弟である弥之助に嫁ぐ。弥之助は後に三菱の2代目総帥となる。
  • 大江小笛:後藤の次女。衆議院議員を務めた大江卓に嫁ぐ。

以下の人達は後藤の孫です。

岩崎 小弥太
  • 後藤 保弥太:猛太郎の長男。北濃鉄道株式会社の社長を務める。
  • 岩崎 小弥太:岩崎早苗の長男。三菱の4代目総帥であり、戦後の財閥解体に最後まで抵抗する。
  • 岩崎 俊弥:岩崎早苗の次男。旭硝子の創業者。

以下の人達は後藤の曾孫になります。

  • 犬養康彦:母親は象二郎の孫娘で、父親は犬養毅の息子。共同通信社の社長などを務める。
  • 川添象郎:祖父は後藤保弥太。音楽プロデューサーとしてYMOや松任谷由実などを世に送り出す。
  • 岩崎英二郎:言論学者であり、慶應義塾大学の教授を務める。

後藤はたくさんの子どもに恵まれ、娘達は良家に嫁いだ為、様々な経歴を持った子孫がいるのです。

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