後藤象二郎は幕末の土佐藩の政治に関与して、藩内の意見を統一すると共に、大政奉還建白書を幕府に提出した人物です。大政奉還とは徳川家が政権を朝廷に奏上するものであり、元々は坂本龍馬をはじめとした当時の有識者が構想したものでした。
後藤はこれらの意見をまとめ、土佐藩の立場を大きく引き上げる事に成功したのでした。明治政府は薩長土肥の出身者が役職を占めます。土佐藩がこれらの中枢に入り込む事が出来たのは幕末における後藤の功績が大きいのです。
後藤象二郎は坂本龍馬との関わりも深く、幕末を題材にした大河ドラマ等では頻繁に出てきます。しかし明治以降の活躍については知らない人も多いのではないでしょうか?後藤は龍馬亡き後も明治政府で政治に携わった他、自由民権運動を主導する等、精力的に活動を続けました。後藤の生涯は実に波乱万丈であり、それが後藤の魅力に繋がっているのかもしれません。
今回は坂本龍馬を学ぶうちに後藤象二郎の魅力に気づき、様々な大河ドラマを観てきた筆者が後藤象二郎の生涯について紹介します。
後藤象二郎とはどんな人物か
名前 | 後藤象二郎 |
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誕生日 | 1838年4月13日 |
没日 | 1897年8月4日 |
生地 | 土佐国高知城下片町(現高知市) |
没地 | 神奈川県箱根 |
配偶者 | 後藤磯子(前妻)・雪子(後妻) |
埋葬場所 | 青山霊園(東京港区) |
後藤象二郎の生涯をダイジェスト
後藤象二郎の生涯をダイジェストすると以下のようになります。
- 1838年 土佐国高知城下片町にて誕生
- 1848年 父の死に伴い、義理の叔父吉田東洋に育てられる
- 1864年 藩政に関与し、藩主の山内容堂の右腕として活躍
- 1867年 大政奉還建白書を山内容堂と共に提出
- 1873年 明治政府の要職に就いていたものの、征韓論で下野
- 1881年 自由党の副党首格として参加する
- 1887年 大同団結運動の指導者となる
- 1889年 黒田清隆内閣の逓信大臣として入閣
- 1897年 心臓病にて死去(享年50歳)
新たなる国作り?大政奉還建白書を提出
大政奉還とは徳川将軍家が天皇に政治の権限を奏上する事です。これは武力を用いてでも倒幕を目指す薩摩や長州に先手を打ち「もう倒幕相手の幕府は存在しない」と攻撃をかわす目的がありました。
大政奉還は朝廷に政権を奏上しつつ、実質的には上下両院の設置による議会政治を想定しています。幕府が消滅しても朝廷に政権運営能力はなく、実際の政治は徳川家が行い、徳川家の権威は保たれる事が想定されました。
後藤は大政奉還建白書を土佐藩の藩政を掌握していた山内容堂に提出。容堂が建白を徳川慶喜に伝える事で大政奉還が実現したのです。そして大政奉還を進言した後藤や容堂は大いに賞賛されました。
結果的にはその後に起きた王政復古の大号令、その後の戊辰戦争により徳川将軍家は政治の場から姿を消してしまいます。新たなる国作りは明治政府に託される事になったのでした。
後藤象二郎と坂本龍馬との関係は?
後藤象二郎と坂本龍馬は身分を超えて協力し合う関係でした。後藤の養父である吉田東洋は龍馬の属する土佐勤王党の党員により暗殺されており、後藤は龍馬に敵対心を持っていました。
後藤は後に龍馬と和解。龍馬が結成した海援隊の援助をした他、龍馬が脱藩の罪に問われた際に特赦の為に動きました。
また後藤は龍馬と藩船「夕顔丸」に乗船した時に、大政奉還を含む新たな政治要綱である「船中八策」を提示されたとされます。船中八策は創作の可能性もありますが、後藤が龍馬に感化されたのは間違いありません。
後藤は大政奉還建白書を容堂に提出する時に龍馬の発案と伝えていません。その為「龍馬の手柄を後藤が横取りした」と考える人もいます。ただ容堂は大政奉還が下士の龍馬の意見だと知ると、耳を傾けなかったと言われています。
後藤は新たな国作りの為にあえて龍馬の名前を出しませんでした。龍馬は「真に才物である。我は、彼の才を利用して、吾党の志望を達せん」とその真意を知っていました。身分を超えた友情が2人にはあったのです。
多くの人に慕われた豪快な性格
後藤は細かい事にこだわらない豪快な性格でした。養父の敵である龍馬と意気投合した他、新撰組の近藤勇に刀を向けられた時に、笑顔を見せて刀を納めさせ今後の親交を約束させています。
後藤と直接会った人達の多くは後藤の事を高く評価しており、人間的魅力に溢れていたようです。同世代の人々は彼をこのように評しています。
坂本龍馬「後藤は実に同志にて、人のたましいも志も土佐国中で外にあるまいと存候」
福沢諭吉「非常大胆の豪傑、満天下唯一の人物は後藤伯だけである」
明治期の後藤は藩閥政治に対抗して大同団結運動を立ち上げたと思えば、黒田清隆内閣に入閣する等、どっちつかずの行動をしています。その一貫性のなさから、後藤の人気は龍馬等に比べると一歩及びません。
ただそれらの行動は藩閥や政党等、立場にこだわらずに行動した事の裏返しあり、豪快な性格から来ているのかもしれません。
子孫は実業家だらけ!実は岩崎弥太郎も親戚だった
後藤は1人目の妻、磯子との間に二男二女(一人夭折)を授かりますが、磯子は若くして亡くなりました。その後、芸者の雪子と結婚し二男四女(二人夭折)を授かっています。
以下の人達は後藤の子供です。
- 後藤 猛太郎:後藤の次男。日本で初めて南西諸島を冒険し、日本活動フィルム会社の初代社長を務めた。
- 岩崎早苗:後藤の長女。岩崎弥太郎の弟である弥之助に嫁ぐ。弥之助は後に三菱の2代目総帥となる。
- 大江小笛:後藤の次女。衆議院議員を務めた大江卓に嫁ぐ。
以下の人達は後藤の孫です。
- 後藤 保弥太:猛太郎の長男。北濃鉄道株式会社の社長を務める。
- 岩崎 小弥太:岩崎早苗の長男。三菱の4代目総帥であり、戦後の財閥解体に最後まで抵抗する。
- 岩崎 俊弥:岩崎早苗の次男。旭硝子の創業者。
以下の人達は後藤の曾孫になります。
- 犬養康彦:母親は象二郎の孫娘で、父親は犬養毅の息子。共同通信社の社長などを務める。
- 川添象郎:祖父は後藤保弥太。音楽プロデューサーとしてYMOや松任谷由実などを世に送り出す。
- 岩崎英二郎:言論学者であり、慶應義塾大学の教授を務める。
後藤はたくさんの子どもに恵まれ、娘達は良家に嫁いだ為、様々な経歴を持った子孫がいるのです。
後藤象二郎の功績
功績1「幕末に藩政に関与し、薩長に負けないよう改革を行う」
後藤が幕末に行った政策は大政奉還の建白書の提出以外では以下の通りです。
- 国際貿易や富国強兵を目的とした開成館を土佐に創設
- 土佐産物の輸出業務や戦艦、武器などの買い入れを行う土佐商会を長崎に設ける。
- ジョン万次郎と共に上海まで赴き、軍艦3隻を購入。
- 薩摩藩の西郷隆盛や小松帯刀と会談し、薩土盟約を締結
1858年より幡多郡奉行に任命され藩政に関与しましたが、養父の吉田東洋が土佐勤王党に暗殺されると後藤は失脚します。その期間に後藤は英語や航海術を学ぶ等、逆境をバネにしたのです。
後藤は藩政に返り咲いた後は、上記に挙げた政策を行い土佐藩の国力を高めます。また大政奉還の建白書の提出により、薩長の倒幕に対する大義名分を失わせる等、一時的ですが政局の主導権を握ったのは見事でした。
後に樹立した明治政府では薩長土肥の出身者が要職を占めます。土佐藩が政府中枢に入り込む事が出来たのは、後藤が幕末に土佐藩の国力を増強し、薩長と渡り合える力を蓄えたからだったのです。
功績2「自由民権運動の先頭に立ち、国会開設に尽力」
後藤は1873年の征韓論で敗れて政界を去った後は「民選議院設立建白書」を板垣退助と政府に提出しています。後藤は藩閥政治を批判し、国会の開設や憲法の作成等、国民に寄り添った政治をするように説きました。
更に後藤は1886年には大同団結運動を提唱します。自由党や立憲改進党等、異なる党派の人達が1890年に行われる選挙に向けて再集結しようという運動でした。後藤の働きにより、自由民権運動は盛り上がりを見せます。
1873年に建白書を提出してから、1890年に国会が開設されるまで実に17年もの歳月が流れています。その間も政府は集会条例や保安条例等、民権運動派達にさまざまな弾圧を行いました。
国会開設や憲法の制定などは後藤達の努力により得られたものなのです。
功績3「黒田内閣に入閣し、政党内閣の実現に尽力 」
大同団結運動を提唱した後藤でしたが、1889年2月には藩閥政府である黒田清隆内閣の逓信大臣として入閣します。どっちつかずの行動は後藤の評価を下げているのですが、内閣を内側から倒閣する目的がありました。
黒田内閣は諸外国との不平等条約の改正に取り組んでいましたが、後藤は交渉内容を批判。外務大臣の大隈重信がテロに遭い重傷を負った際には「1人の大臣の責任は内閣の連帯責任」と主張しました。
黒田内閣は大隈の責任を取り総辞職となり、後藤は藩閥政府の倒閣に成功したのです。後藤は民権運動家出身の閣僚として自由党や立憲改進党の人達と独自のパイプ持ったのでした。