後藤象二郎とはどんな人?生涯・年表まとめ【龍馬との関係や大政奉還、子孫について紹介】

後藤象二郎の簡単年表

1838年 – 0歳
後藤象二郎誕生

土佐藩士の後藤正晴の長男として誕生。父は後藤が11歳の時になくなり、義理の叔父の吉田東洋に育てられます。

1862年 – 24歳
吉田東洋の暗殺

吉田の推挙により幡多郡奉行となり藩政に関与します。1862年に吉田が土佐勤王党の武市半平太らに暗殺されると失脚します。その後は勉学の為に江戸に行く等して教養を高めました。

1864年 – 26歳
藩政に復帰する

藩政は一時は武市ら土佐勤王党が掌握するものの、前藩主の山内容堂が復帰すると彼らを弾圧。後藤も藩政に復帰しました。1865年には武市らを切腹させると、後藤は藩政の中枢に関わり、様々な改革を行いました。

1867年 – 30歳
大政奉還建白書を提出する

坂本龍馬とかかわるようになり、船中八策(創作説あり)を授けられています。1867年10月3日に容堂との連署にて大政奉還の建白書を徳川慶喜に提出し、14日に大政奉還は実行されました。

1873年 – 36歳
明治6年の政変で下野する

明治維新後は大阪府知事や参与等の要職につきますが、明治6年の政変により西郷隆盛や板垣退助らと共に下野します。
その後は自由民権運動の先頭に立ち、1874年1月に発足した愛国公党を結成し、民撰議院設立建白書を政府に提出しました。

1881年 – 43歳
自由党に入党する

1881年の明治14年の政変により、国会開設の詔が出されると後藤は板垣らと共に自由党を結成します。1884年に自由党は内輪揉めや政府の弾圧により、解党しています。

1887年 – 49歳
大同団結運動の先頭に立つ

政府の条約改正案への不満を発端に自由民権運動は再び盛り上がります。後藤は元自由党派をはじめとした各派が統一して、来たる総選挙に向けて団結するべきと声をあげました。
その後政府は保安条例を出し、これらの運動を弾圧しました。

1889年 – 52歳
黒田内閣の逓信大臣として入閣する

1889年に後藤は黒田内閣に入閣します。民権派からは裏切りだと批判を受けますが、後藤は内閣の切り崩しに活躍しました。
その後も様々な内閣で要職を歴任しますが、1894年に収賄事件の責任を取り大臣職を辞任します。

1897年 – 60歳
心臓病にて死去

1896年頃から心臓病を患い、箱根で療養していました。その後1897年の8月4日に60歳で死去します。

後藤象二郎の年表

1838年 – 0歳「後藤象二郎誕生」

初代土佐藩主の山内一豊

先祖の福基

後藤は1838年4月13日に高知城下片町にて後藤正晴の長男として生まれます。後藤家の先祖は後藤福基と言い、1601年に土佐藩の初代藩主山内一豊に召し抱えられられた人物です。

後藤象二郎は福基から数えて10代目にあたる、由緒正しい家柄でした。

上士と下士との根深い差別

土佐国は関ヶ原以前は長宗我部氏が治めていましたが、関ヶ原の戦いで没落し土佐を去ります。後から徳川家の家臣である山内一豊が派遣され、明治維新まで山内家がこの地を治めます。

山内一豊は長宗我部の旧臣を激しく弾圧し、藩政に加えませんでした。土佐藩は「後藤達のような山内系の武士である上士」「坂本龍馬のような長宗我部系の武士である下士」と明確な差別が幕末まで続いたのです。

1848年 – 11歳「父の正晴が死去し、吉田東洋に養育される」

吉田東洋

吉田東洋に養育される

1848年に後藤が11歳の時に正晴が病死すると、後藤は義理の叔父、吉田東洋に養育されます。吉田は15代藩主の山内容堂に評価され、1853年から藩政に関与した人物です。

吉田は1855年に酒の場で騒ぎを起こし隠居。その後は藩庁に内密で「少林塾」を開き少年教育に力を注ぎます。少林塾では後藤の他、板垣退助や岩崎弥太郎が集まり、彼らは後に「新おこぜ組」という非公式の派閥を作りました。

板垣退助との関わり

後藤は少林塾で共に学んだ板垣と幼馴染でした。後藤は板垣を「いのす」板垣は後藤を「やす」と呼び合っています。

2人は仲が良いものの時々喧嘩もしました。後藤は幼少期は蛇が苦手であり、板垣は喧嘩の時に蛇を持ち出して後藤を撃退していました。2人は生涯にわたり志を共にしていくのです。

1862年 – 24歳「吉田東洋の暗殺により失脚する」

土佐勤王党の盟主である武市半平太

吉田東洋が再び藩政に関与する

1857年に吉田は罪を許され、再び藩政に関与します。吉田は殖産興業、開国貿易等、富国強兵等の政策を打ち出しました。吉田は新おこぜ組の面々を重用しており、後藤は1858年に幡多郡奉行に任命されています。

その後も後藤は1860年に普請奉行、1861年に御近習目付と順調に出世を重ねました。

吉田東洋の暗殺

吉田の政策は革新的だった為、旧来の勢力や尊王攘夷を掲げる土佐勤王党と対立します。1862年5月に吉田は土佐勤王党の盟主、武市半平太の刺客により暗殺されました。結果的に新おこぜ組の面々も失脚します。

ちなみに吉田東洋には当時11歳の息子正春がいたものの、2年後には母親も死去し孤児となりました。そんな正春に手を差し伸べたのは後藤でした。後藤はかつての恩を返す為、正春を養育したのです。

1864年 – 26歳「藩政に復帰する」

山内容堂

山内容堂が藩政を掌握する

後藤は失脚していた時期に江戸に向かい、英語や航海術を学んでいます。1864年には安政の大獄で隠居していた山内容堂が謹慎を解かれ土佐に帰郷。藩主の座は退いたものの、強い影響力を持っていました。

同年に後藤も容堂の推挙により藩政に復帰。容堂は幕府に大恩ある山内家の一族である為、幕府側の立場を貫いています。それに伴い後藤も容堂の指示を受けて、公武合体派の急先鋒として活躍します。

1865年には容堂は土佐勤王党の弾圧を行い、盟主の武市半平太を切腹させました。藩内の内部抗争に勝利した後藤は「幕末に藩政に関与し、薩長に負けないよう改革を行う」で紹介した様々な改革を行っています。

1867年 – 30歳「龍馬との出会いと薩土盟約」

土佐商会跡地

坂本龍馬と意気投合

後藤は吉田の遺志を受け継ぎ改革を行い、土佐商会を立ち上げますがうまくはいきません。後藤は坂本龍馬が立ち上げた商社「亀山社中(後の海援隊)」が成功している事から注目するようになりました。

龍馬も亀山社中が所有する唯一の船が沈没する等、経営が困難になっていました。龍馬も土佐藩の援助を求めていたのです。1867年1月に後藤と龍馬は長崎の清風亭で面会し、過去の因縁を忘れて意気投合しました。

後藤は龍馬と頻繁に会うようになりました。6月に後藤は容堂の指示で大阪に向かう為、「夕顔丸」に乗船しますが、龍馬も同伴しています。この時に大政奉還を含む新たな政治要綱である「船中八策」を提示されたとされます。

薩土盟約を結ぶ

大政奉還論に後藤は感銘を受け、京や大坂にいる藩の重臣達と大政奉還論の重要性を説きました。同じ月には薩摩藩と大政奉還論を主導するという方針を誓い合った薩土盟約を締結しています。

7月には後藤は容堂らに大政奉還論を説く為に土佐に戻るのでした。

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