1867年 – 30歳「大政奉還建白書を提出する」
薩土盟約の解消
容堂は大政奉還の方針に賛同するものの、計画の中で兵力を用いる点に反対を唱えます。更に後藤は同時期に起きたイカルス号事件(土佐の人物がイギリス水兵を殺害した事件)の処理に追われました。
9月に後藤は薩土盟約の返答の為に大阪に戻りますが、西郷隆盛たち薩摩側から盟約解消を言い渡されます。理由は諸説あるものの「土佐藩の返事が遅かった」「薩摩側が武力倒幕出来る下地が整った」等が挙げられます。
大政奉還建白書を提出する
9月9日に薩土盟約は正式に解消されますが、実は秘密裏に薩摩藩は長州藩、芸州藩と出兵を計画していました。事情を知らない土佐藩は大政奉還建白書の提出の協力を薩摩藩に仰いでいます。
結果的に薩摩藩から協力は得られず、土佐藩単独で建白書を徳川慶喜に提出する事を決めます。建白書は容堂による本文、寺村左膳・後藤象二郎・福岡孝弟・神山左多衛による連名の別紙からなり、10月3日に提出されました。
薩摩藩は「慶喜は大政奉還を受け入れない」と考えていました。しかし慶喜は政局を見極め、10月15日に大政奉還を受け入れます。後藤は薩摩藩を出し抜いたのです。なお大政奉還の立役者だった龍馬はその後暗殺されています。
1868年 – 31歳「明治政府で参与となる」
大政奉還後の後藤象二郎
後藤は大政奉還の功績により、元々の150石から1500石に加増されました。しかし土佐藩の独走を快く思わない薩摩藩と土佐藩は王政復古の大号令を発し、新体制を樹立させます。
新政府で後藤は参与という役職に任命されます。土佐藩で参与に任命されたのは3名でしたが、薩摩からは9名、長州からは5名と土佐藩は大きく勢力を削がれてしまいます。
戊辰戦争勃発
1868年1月には新政府軍と幕府軍により戊辰戦争が勃発。土佐藩も100名の藩士を京都に派遣していますが、容堂は新政府軍に加わる事に反対しています。板垣退助は独断で迅衝隊を率いて戊辰戦争に参戦しました。
戊辰戦争で幕府軍についた藩は明治政府で冷遇されたのですが、土佐藩は板垣の活躍により明治政府でもある程度の発言力を維持しました。しかし薩長が優遇される状況はその後も変わりはなかったのです。
1873年 – 36歳「明治六年の政変で下野する」
明治六年の政変
明治維新後の後藤は大阪府知事・工部大輔・左院議長・参議等の要職を歴任します。1871年には岩倉具視や大久保利通らが岩倉使節団として欧米に派遣され、後藤は西郷隆盛ら、留守政府と共に政策に関与します。
1873年には留守政府の間で「朝鮮に出兵すべし」という征韓論が決定します。後藤も征韓論に賛成していましたが、帰国した岩倉具視や大久保利通、木戸孝允らの猛反発を受けるのです。
結果的に後藤をはじめとした以下の人達が政府から去りました。
- 後藤象二郎
- 西郷隆盛
- 板垣退助
- 江藤新平
- 副島種臣
その他、軍人や官僚600人が職を辞する事になりました。この一連の流れを明治六年の政変と呼びます。これ以降の後藤は政府と付かず離れずの立場をとりますが、苦難と挫折の繰り返しとなりました。
1874年 – 37歳「板垣退助が民撰議院設立建白書を提出する」
藩閥政治に対する反抗心
後藤達が政府から下野した背景には征韓論による意見の対立だけでなく、薩摩長州出身者が優遇されている事に不満を抱いていた事も挙げられます。
板垣は後藤達と1874年1月12日に日本初の政治結社「愛国公党」を立ち上げ、17日には議会の開設を要望した「民撰議院設立建白書」を政府に提出しています。これが自由民権運動のきっかけとなりました。
蓬萊社の立ち上げと失敗
愛国公党は板垣が帰郷し、江藤が佐賀の乱に加わる等して自然消滅します。後藤は2月には政治資金を集める為、蓬萊社という会社を設立。これは前述した通り、2年後に倒産し、後藤は巨大な借金を抱えます。
とはいえ洋紙製紙業、機械精糖業等は蓬萊社の影響で近代日本における重要な産業となり、その意義は大きいのです。
ちなみに1875年に板垣や大久保達は大阪会議を行い、板垣の要望で新法の制定と旧法の改定を担う元老院が設立します。後藤は4月に副議長として政府に返り咲きますが、1876年3月には意見の違いから再び下野しました。
1881年 – 43歳「自由党の立ち上げに関与する」
明治十四年の政変
1881年に明治十四年の政変が起こり、国会開設の詔が出されると自由民権運動は盛り上がりを見せます。板垣は後藤達と自由党を結成し、来たる国会開設に備えました。
自由党は以下の政策を掲げました。
- 主権在民
- 一院制議会
- 普通選挙など
後藤は当初党首に任命されるものの、板垣に譲り自身は副党首格となりました。
洋行問題により自由党が分裂する
政府は讒謗律や集会条例を改悪し、運動の弾圧を図ります。一方で板垣や後藤に欧州の外遊を働きかける等の懐柔策を取ります。外遊費は藩閥政府の御用達である三井から提供されており、2人は党内から強い批判を浴びました。
更に自由民権運動家の中には武力を用いた過激派もおり、各地で激化事件が頻発。1884年には自由党も解散するのです。この頃には自由民権運動はすっかり下火となったのです。
1887年 – 50歳「大同団結運動を提唱する」
大同団結運動の高まり
下火となった自由民権運動ですが、政府による不平等条約の改正案に対する不満から1887年には再び盛り上がりを見せます。後藤は元自由党派や大隈重信による立憲改進党派達が合同して選挙に備えるべきと訴えます。
この動きは大同団結運動と呼ばれ、若き日の尾崎行雄等も運動に参加しています。後藤は正装して宮内庁に赴くものの、明治天皇との謁見は許されませんでした。
大同団結運動の崩壊
盛り上がりを見せた大同団結運動でしたが、政府は1887年12月に集会条例を制定し、秘密の集会・結社を禁止し運動を骨抜きにします。更に尾崎を含めた570人の民権運動家も東京から退去させられるのです。
政府は更に懐柔策をとり、1888年2月に大隈重信を第一次伊藤内閣の外務大臣に任命し立憲改進党を運動から撤退させます。1889年2月には後藤自らが黒田内閣の逓信大臣として入閣し、運動からの撤退を表明しました。
後藤が提唱した大同団結運動は、後藤の手によって事実上崩壊したのです。
1889年 – 52歳「黒田清隆内閣を倒閣させる」
後藤の行動の意図
後藤の行動は共に活動する民権運動家から批判を受けますが、これは意図しての行動という事は「黒田内閣に入閣し、政党内閣の実現に尽力 」で述べた通りです。
黒田内閣倒閣後も後藤は第一次山縣内閣、第一次松方内閣、第二次伊藤内閣でも要職を歴任します。第一次山縣内閣時に第一回総選挙が行われ、自由党や立憲改進党等の民権派は多数の議席を獲得しました。
後藤は長年政党に属していた人脈を活かし、議会におえる多数決の工作を図る等、独自の立ち位置で政策に関与するのです。
汚職により大臣職を辞任する
後藤は第二次伊藤内閣では農商務大臣となりますが、1894年1月に米穀取引所設置に関わる汚職事件により大臣を辞任します。それ以降後藤は政府に出仕する事はなく、表舞台から退きました。
1897年 – 60歳「後藤象二郎死去」
心臓病にて死去
1894年から勃発した日清戦争では、福沢諭吉達が後藤を朝鮮政府顧問として清に派遣する計画がありました。結局日本政府が多くの顧問を派遣した為、後藤に声がかかる事はなく、後藤は失意の日々を送ります。
1896年夏頃になると心臓病を患うようになり、後藤は箱根で療養生活を送ります。しかし病状が改善する事はなく、1897年8月4日に療養先の箱根で60歳で死去しました。
幕末に大きな功績を残した後藤でしたが、明治以降は大きな活躍を残す事は出来なかったのですね。