後藤象二郎の功績
功績1「幕末に藩政に関与し、薩長に負けないよう改革を行う」
後藤が幕末に行った政策は大政奉還の建白書の提出以外では以下の通りです。
- 国際貿易や富国強兵を目的とした開成館を土佐に創設
- 土佐産物の輸出業務や戦艦、武器などの買い入れを行う土佐商会を長崎に設ける。
- ジョン万次郎と共に上海まで赴き、軍艦3隻を購入。
- 薩摩藩の西郷隆盛や小松帯刀と会談し、薩土盟約を締結
1858年より幡多郡奉行に任命され藩政に関与しましたが、養父の吉田東洋が土佐勤王党に暗殺されると後藤は失脚します。その期間に後藤は英語や航海術を学ぶ等、逆境をバネにしたのです。
後藤は藩政に返り咲いた後は、上記に挙げた政策を行い土佐藩の国力を高めます。また大政奉還の建白書の提出により、薩長の倒幕に対する大義名分を失わせる等、一時的ですが政局の主導権を握ったのは見事でした。
後に樹立した明治政府では薩長土肥の出身者が要職を占めます。土佐藩が政府中枢に入り込む事が出来たのは、後藤が幕末に土佐藩の国力を増強し、薩長と渡り合える力を蓄えたからだったのです。
功績2「自由民権運動の先頭に立ち、国会開設に尽力」
後藤は1873年の征韓論で敗れて政界を去った後は「民選議院設立建白書」を板垣退助と政府に提出しています。後藤は藩閥政治を批判し、国会の開設や憲法の作成等、国民に寄り添った政治をするように説きました。
更に後藤は1886年には大同団結運動を提唱します。自由党や立憲改進党等、異なる党派の人達が1890年に行われる選挙に向けて再集結しようという運動でした。後藤の働きにより、自由民権運動は盛り上がりを見せます。
1873年に建白書を提出してから、1890年に国会が開設されるまで実に17年もの歳月が流れています。その間も政府は集会条例や保安条例等、民権運動派達にさまざまな弾圧を行いました。
国会開設や憲法の制定などは後藤達の努力により得られたものなのです。
功績3「黒田内閣に入閣し、政党内閣の実現に尽力 」
大同団結運動を提唱した後藤でしたが、1889年2月には藩閥政府である黒田清隆内閣の逓信大臣として入閣します。どっちつかずの行動は後藤の評価を下げているのですが、内閣を内側から倒閣する目的がありました。
黒田内閣は諸外国との不平等条約の改正に取り組んでいましたが、後藤は交渉内容を批判。外務大臣の大隈重信がテロに遭い重傷を負った際には「1人の大臣の責任は内閣の連帯責任」と主張しました。
黒田内閣は大隈の責任を取り総辞職となり、後藤は藩閥政府の倒閣に成功したのです。後藤は民権運動家出身の閣僚として自由党や立憲改進党の人達と独自のパイプ持ったのでした。
功績4「朝鮮のクーデターに協力する」
後藤象二郎は、1884年に朝鮮で起こったクーデター「甲申事変」に関わっていた日本人の一人でした。日本の明治維新を模範に、朝鮮も近代化して清から真の独立を果たそうと独立党を率いていた金玉均は、福沢諭吉の紹介で後藤とも面識を持ち、日本の武力を使ってクーデターを起こそうとします。
クーデターに際し、後藤は金玉均ら朝鮮開化派に対して多額の金銭的援助をしたほか、福澤は後藤を政府顧問として朝鮮に送り込もうと考えていました。クーデターの実行により、朝鮮にいた日本の駐在軍の武力で一時は金玉均ら開化派が政権を握りましたが、清の干渉により甲申事変は失敗します。後藤の政府顧問就任の話も立ち消えになりました。
後藤象二郎と関わりの深い人物
坂本龍馬との関係
後藤象二郎にとって、坂本龍馬はビジネスパートナーのようなものでした。養父である吉田東洋の暗殺に龍馬の参加する土佐勤王党が関係していたため、個人的な恨みはあったかもしれません。しかし日本という国の行く末を考える上では、後藤と龍馬は意気投合し、大政奉還という奇策を思いつくに至るのです。
大政奉還論は、後藤が購入した藩船「夕顔丸」に龍馬と同乗した際、龍馬が提案した新たな政治の仕組み「船中八策」を聞かされ、後藤が感化されたことで生まれたという説が有名です。しかし船中八策については創作の可能性も指摘され、あくまで後藤の考えという説を唱える人もいます。
後藤は大政奉還建白書を藩主の山内容堂に出す際に、龍馬の発案とは伝えていません。それゆえに後藤が龍馬の手柄を横取りしたと考える人もいます。ただ、坂本龍馬は土佐藩の郷士と呼ばれる身分の低い武士であったため、身分制度に厳しい土佐藩で龍馬の名前を出したところで、容堂が耳を傾けることはなかったとも言えます。
龍馬は「真に才物である。我は、彼の才を利用して、吾党の志望を達せん」と後藤の真意を知っていたかような言葉を残しています。大政奉還は後藤と龍馬の私情を超えた関係の上で生まれた、土佐藩にとって起死回生の策だったのです。
福沢諭吉のとの関係
後藤象二郎が慶應義塾の創設者である福沢諭吉と深い交わりを持っていたことは、あまり知られていません。しかし福澤は後藤を高く評価しており、ゆくゆくは日本の国の舵取りを任せたいと切望していたほどでした。
二人の関係は、炭鉱を買ったために負債で身動きできない後藤を、福澤が誰にも頼まれもしないのに助けたことから始まります。大胆な性格と自由な思想を持つ後藤に福澤は惚れ込んでいたため、後藤が窮地に立たされると、政治家として活躍する場を用意するためにいつでも駆け回りました。
後藤が亡くなると、福澤は自ら創刊した新聞「時事新報」に弔文を載せます。そこには、いつか後藤が総理大臣に就任して、滞る政治を一新することを願っていたという内容が書かれていました。1898年に福澤と関わりの深い大隈重信が総理大臣になっていることを思えば、もし後藤が生きていたら、この福澤の願いは叶っていたかもしれません。
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板垣退助との関係
板垣退助は後藤象二郎にとって遠い親戚というだけでなく、近所の幼馴染であり、生涯にわたって共に政治活動を行うに至る、唯一無二の関係でした。とはいえ、意見が合わないことも度々ありました。幕末には平和裡に大政奉還を推し進めようとする後藤に対し、武力をもって幕府を倒して新しい時代を作りたい板垣とで意見に食い違いが生まれます。
しかし明治政府では共に参議として新しい国づくりに参加します。1873年の征韓論争では、二人は共に敗れて下野し、高知県の自由民権運動を引っ張っていく立場となりました。1881年に結成した自由党にも二人揃って参加しています。その後、立憲政治の視察のためにヨーロッパを旅した際も二人一緒でした。
その後、政府に対する立場が違うこともありましたが、後藤が亡くなった際には板垣が長文の追悼演説を行い、後藤の銅像を作るために奔走しました。板垣も他界後に銅像が建てられますが、後藤の銅像と向かい合うように作られたと言われています。しかし後藤と板垣の銅像は共に金属資源として太平洋戦争中に供出され、戦後も再建されませんでした。
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吉田東洋との関係
後藤象二郎を志士へと導いたのが吉田東洋です。後藤は、東洋が開いていた鶴田塾(小林塾)に入ります。小林塾では、のちに三菱財閥の基礎を作る岩崎弥太郎や、明治政府の基本的組織を定めた政体書の起草で知られる福岡孝弟(たかちか)も共に学んでいました。
しかし1862年、吉田東洋は暗殺されてしまいます。それにより後藤は土佐藩で務めていた任務を解かれました。後藤にとって、東洋の死は苦難の始まりであったわけです。しかしそれは、坂本龍馬などとの新しい出会いに恵まれるきっかけでもありました。なお、東洋の息子は後藤によって引き取られ、明治時代には共に大同団結運動に参加しています。