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後藤象二郎とはどんな人?生涯・年表まとめ【龍馬との関係や大政奉還、子孫について紹介】

後藤象二郎の年表

1838年 – 0歳「後藤象二郎誕生」

初代土佐藩主の山内一豊

先祖の福基

後藤は1838年4月13日に高知城下片町にて後藤正晴の長男として生まれます。後藤家の先祖は後藤福基と言い、1601年に土佐藩の初代藩主山内一豊に召し抱えられられた人物です。

後藤象二郎は福基から数えて10代目にあたる、由緒正しい家柄でした。

上士と下士との根深い差別

土佐国は関ヶ原以前は長宗我部氏が治めていましたが、関ヶ原の戦いで没落し土佐を去ります。後から徳川家の家臣である山内一豊が派遣され、明治維新まで山内家がこの地を治めます。

山内一豊は長宗我部の旧臣を激しく弾圧し、藩政に加えませんでした。土佐藩は「後藤達のような山内系の武士である上士」「坂本龍馬のような長宗我部系の武士である下士」と明確な差別が幕末まで続いたのです。

1848年 – 11歳「父の正晴が死去し、吉田東洋に養育される」

吉田東洋に養育される

1848年に後藤が11歳の時に正晴が病死すると、後藤は義理の叔父、吉田東洋に養育されます。吉田は15代藩主の山内容堂に評価され、1853年から藩政に関与した人物です。

吉田は1855年に酒の場で騒ぎを起こし隠居。その後は藩庁に内密で「少林塾」を開き少年教育に力を注ぎます。少林塾では後藤の他、板垣退助や岩崎弥太郎が集まり、彼らは後に「新おこぜ組」という非公式の派閥を作りました。

板垣退助との関わり

後藤は少林塾で共に学んだ板垣と幼馴染でした。後藤は板垣を「いのす」板垣は後藤を「やす」と呼び合っています。

2人は仲が良いものの時々喧嘩もしました。後藤は幼少期は蛇が苦手であり、板垣は喧嘩の時に蛇を持ち出して後藤を撃退していました。2人は生涯にわたり志を共にしていくのです。

1862年 – 24歳「吉田東洋の暗殺により失脚する」

土佐勤王党の盟主である武市半平太

吉田東洋が再び藩政に関与する

1857年に吉田は罪を許され、再び藩政に関与します。吉田は殖産興業、開国貿易等、富国強兵等の政策を打ち出しました。吉田は新おこぜ組の面々を重用しており、後藤は1858年に幡多郡奉行に任命されています。

その後も後藤は1860年に普請奉行、1861年に御近習目付と順調に出世を重ねました。

吉田東洋の暗殺

吉田の政策は革新的だった為、旧来の勢力や尊王攘夷を掲げる土佐勤王党と対立します。1862年5月に吉田は土佐勤王党の盟主、武市半平太の刺客により暗殺されました。結果的に新おこぜ組の面々も失脚します。

ちなみに吉田東洋には当時11歳の息子正春がいたものの、2年後には母親も死去し孤児となりました。そんな正春に手を差し伸べたのは後藤でした。後藤はかつての恩を返す為、正春を養育したのです。

1864年 – 26歳「藩政に復帰する」

山内容堂

山内容堂が藩政を掌握する

後藤は失脚していた時期に江戸に向かい、英語や航海術を学んでいます。1864年には安政の大獄で隠居していた山内容堂が謹慎を解かれ土佐に帰郷。藩主の座は退いたものの、強い影響力を持っていました。

同年に後藤も容堂の推挙により藩政に復帰。容堂は幕府に大恩ある山内家の一族である為、幕府側の立場を貫いています。それに伴い後藤も容堂の指示を受けて、公武合体派の急先鋒として活躍します。

1865年には容堂は土佐勤王党の弾圧を行い、盟主の武市半平太を切腹させました。藩内の内部抗争に勝利した後藤は「幕末に藩政に関与し、薩長に負けないよう改革を行う」で紹介した様々な改革を行っています。

1867年 – 30歳「龍馬との出会いと薩土盟約」

土佐商会跡地

坂本龍馬と意気投合

後藤は吉田の遺志を受け継ぎ改革を行い、土佐商会を立ち上げますがうまくはいきません。後藤は坂本龍馬が立ち上げた商社「亀山社中(後の海援隊)」が成功している事から注目するようになりました。

龍馬も亀山社中が所有する唯一の船が沈没する等、経営が困難になっていました。龍馬も土佐藩の援助を求めていたのです。1867年1月に後藤と龍馬は長崎の清風亭で面会し、過去の因縁を忘れて意気投合しました。

後藤は龍馬と頻繁に会うようになりました。6月に後藤は容堂の指示で大阪に向かう為、「夕顔丸」に乗船しますが、龍馬も同伴しています。この時に大政奉還を含む新たな政治要綱である「船中八策」を提示されたとされます。

薩土盟約を結ぶ

大政奉還論に後藤は感銘を受け、京や大坂にいる藩の重臣達と大政奉還論の重要性を説きました。同じ月には薩摩藩と大政奉還論を主導するという方針を誓い合った薩土盟約を締結しています。

7月には後藤は容堂らに大政奉還論を説く為に土佐に戻るのでした。

1867年 – 30歳「大政奉還建白書を提出する」

大政奉還建白書の写し

薩土盟約の解消

容堂は大政奉還の方針に賛同するものの、計画の中で兵力を用いる点に反対を唱えます。更に後藤は同時期に起きたイカルス号事件(土佐の人物がイギリス水兵を殺害した事件)の処理に追われました。

9月に後藤は薩土盟約の返答の為に大阪に戻りますが、西郷隆盛たち薩摩側から盟約解消を言い渡されます。理由は諸説あるものの「土佐藩の返事が遅かった」「薩摩側が武力倒幕出来る下地が整った」等が挙げられます。

大政奉還建白書を提出する

9月9日に薩土盟約は正式に解消されますが、実は秘密裏に薩摩藩は長州藩、芸州藩と出兵を計画していました。事情を知らない土佐藩は大政奉還建白書の提出の協力を薩摩藩に仰いでいます。

結果的に薩摩藩から協力は得られず、土佐藩単独で建白書を徳川慶喜に提出する事を決めます。建白書は容堂による本文、寺村左膳・後藤象二郎・福岡孝弟・神山左多衛による連名の別紙からなり、10月3日に提出されました。

薩摩藩は「慶喜は大政奉還を受け入れない」と考えていました。しかし慶喜は政局を見極め、10月15日に大政奉還を受け入れます。後藤は薩摩藩を出し抜いたのです。なお大政奉還の立役者だった龍馬はその後暗殺されています。

1868年 – 31歳「明治政府で参与となる」

戊辰戦争

大政奉還後の後藤象二郎

後藤は大政奉還の功績により、元々の150石から1500石に加増されました。しかし土佐藩の独走を快く思わない薩摩藩と土佐藩は王政復古の大号令を発し、新体制を樹立させます。

新政府で後藤は参与という役職に任命されます。土佐藩で参与に任命されたのは3名でしたが、薩摩からは9名、長州からは5名と土佐藩は大きく勢力を削がれてしまいます。

戊辰戦争勃発

1868年1月には新政府軍と幕府軍により戊辰戦争が勃発。土佐藩も100名の藩士を京都に派遣していますが、容堂は新政府軍に加わる事に反対しています。板垣退助は独断で迅衝隊を率いて戊辰戦争に参戦しました。

戊辰戦争で幕府軍についた藩は明治政府で冷遇されたのですが、土佐藩は板垣の活躍により明治政府でもある程度の発言力を維持しました。しかし薩長が優遇される状況はその後も変わりはなかったのです。

1873年 – 36歳「明治六年の政変で下野する」

明治六年の政変を表した絵巻物

明治六年の政変

明治維新後の後藤は大阪府知事・工部大輔・左院議長・参議等の要職を歴任します。1871年には岩倉具視や大久保利通らが岩倉使節団として欧米に派遣され、後藤は西郷隆盛ら、留守政府と共に政策に関与します。

1873年には留守政府の間で「朝鮮に出兵すべし」という征韓論が決定します。後藤も征韓論に賛成していましたが、帰国した岩倉具視や大久保利通、木戸孝允らの猛反発を受けるのです。

結果的に後藤をはじめとした以下の人達が政府から去りました。

  • 後藤象二郎
  • 西郷隆盛
  • 板垣退助
  • 江藤新平
  • 副島種臣

その他、軍人や官僚600人が職を辞する事になりました。この一連の流れを明治六年の政変と呼びます。これ以降の後藤は政府と付かず離れずの立場をとりますが、苦難と挫折の繰り返しとなりました。

1874年 – 37歳「板垣退助が民撰議院設立建白書を提出する」

板垣退助(1880年頃)

藩閥政治に対する反抗心

後藤達が政府から下野した背景には征韓論による意見の対立だけでなく、薩摩長州出身者が優遇されている事に不満を抱いていた事も挙げられます。

板垣は後藤達と1874年1月12日に日本初の政治結社「愛国公党」を立ち上げ、17日には議会の開設を要望した「民撰議院設立建白書」を政府に提出しています。これが自由民権運動のきっかけとなりました。

蓬萊社の立ち上げと失敗

愛国公党は板垣が帰郷し、江藤が佐賀の乱に加わる等して自然消滅します。後藤は2月には政治資金を集める為、蓬萊社という会社を設立。これは前述した通り、2年後に倒産し、後藤は巨大な借金を抱えます。

とはいえ洋紙製紙業、機械精糖業等は蓬萊社の影響で近代日本における重要な産業となり、その意義は大きいのです。

ちなみに1875年に板垣や大久保達は大阪会議を行い、板垣の要望で新法の制定と旧法の改定を担う元老院が設立します。後藤は4月に副議長として政府に返り咲きますが、1876年3月には意見の違いから再び下野しました。

1881年 – 43歳「自由党の立ち上げに関与する」

国会開設の詔

明治十四年の政変

1881年に明治十四年の政変が起こり、国会開設の詔が出されると自由民権運動は盛り上がりを見せます。板垣は後藤達と自由党を結成し、来たる国会開設に備えました。

自由党は以下の政策を掲げました。

  • 主権在民
  • 一院制議会
  • 普通選挙など

後藤は当初党首に任命されるものの、板垣に譲り自身は副党首格となりました。

洋行問題により自由党が分裂する

政府は讒謗律や集会条例を改悪し、運動の弾圧を図ります。一方で板垣や後藤に欧州の外遊を働きかける等の懐柔策を取ります。外遊費は藩閥政府の御用達である三井から提供されており、2人は党内から強い批判を浴びました。

更に自由民権運動家の中には武力を用いた過激派もおり、各地で激化事件が頻発。1884年には自由党も解散するのです。この頃には自由民権運動はすっかり下火となったのです。

1887年 – 50歳「大同団結運動を提唱する」

後年の後藤象二郎

大同団結運動の高まり

下火となった自由民権運動ですが、政府による不平等条約の改正案に対する不満から1887年には再び盛り上がりを見せます。後藤は元自由党派や大隈重信による立憲改進党派達が合同して選挙に備えるべきと訴えます。

この動きは大同団結運動と呼ばれ、若き日の尾崎行雄等も運動に参加しています。後藤は正装して宮内庁に赴くものの、明治天皇との謁見は許されませんでした。

大同団結運動の崩壊

盛り上がりを見せた大同団結運動でしたが、政府は1887年12月に集会条例を制定し、秘密の集会・結社を禁止し運動を骨抜きにします。更に尾崎を含めた570人の民権運動家も東京から退去させられるのです。

政府は更に懐柔策をとり、1888年2月に大隈重信を第一次伊藤内閣の外務大臣に任命し立憲改進党を運動から撤退させます。1889年2月には後藤自らが黒田内閣の逓信大臣として入閣し、運動からの撤退を表明しました。

後藤が提唱した大同団結運動は、後藤の手によって事実上崩壊したのです。

1889年 – 52歳「黒田清隆内閣を倒閣させる」

1890年に行われた第一回総選挙の結果

後藤の行動の意図

後藤の行動は共に活動する民権運動家から批判を受けますが、これは意図しての行動という事は「黒田内閣に入閣し、政党内閣の実現に尽力 」で述べた通りです。

黒田内閣倒閣後も後藤は第一次山縣内閣、第一次松方内閣、第二次伊藤内閣でも要職を歴任します。第一次山縣内閣時に第一回総選挙が行われ、自由党や立憲改進党等の民権派は多数の議席を獲得しました。

後藤は長年政党に属していた人脈を活かし、議会におえる多数決の工作を図る等、独自の立ち位置で政策に関与するのです。

汚職により大臣職を辞任する

後藤は第二次伊藤内閣では農商務大臣となりますが、1894年1月に米穀取引所設置に関わる汚職事件により大臣を辞任します。それ以降後藤は政府に出仕する事はなく、表舞台から退きました。

1897年 – 60歳「後藤象二郎死去」

後藤象二郎の墓

心臓病にて死去

1894年から勃発した日清戦争では、福沢諭吉達が後藤を朝鮮政府顧問として清に派遣する計画がありました。結局日本政府が多くの顧問を派遣した為、後藤に声がかかる事はなく、後藤は失意の日々を送ります。

1896年夏頃になると心臓病を患うようになり、後藤は箱根で療養生活を送ります。しかし病状が改善する事はなく、1897年8月4日に療養先の箱根で60歳で死去しました。

幕末に大きな功績を残した後藤でしたが、明治以降は大きな活躍を残す事は出来なかったのですね。

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この作品は高知の有志の強い希望で作られた映画であり、ロケ地は高知、エキストラも地元の子どもたちと郷土愛に包まれた映画です。後藤役の西村も高知出身であり、違和感のない土佐弁を聞く事が出来ますよ。

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NHK大河ドラマ 龍馬伝 総集編 DVD BOX

2010年の大河ドラマ「龍馬伝」の総集編です。後藤役の青木崇高は役作りの為に15kgも増量したそうです。後藤は10話から登場し、やがて龍馬と和解していきます。

後半になるにつれ存在感を増していく青木の演技は影の主役とも呼ばれていたのです。全て観るのは大変な方には、総集編をオススメします。

竜馬がゆく

司馬遼太郎の代表作、竜馬がゆくをドラマ化した作品です。いわば龍馬や後藤のイメージはこの作品の影響が大きいでしょう。最新のものは2004年度のもので、竜馬は市川染五郎、後藤は吹越満が演じています。

「竜馬がゆく」の後藤は金遣いが荒く、豪快な人というイメージであり、龍馬伝とはまた異なる魅力を引き出しています。

関連外部リンク

後藤象二郎についてのまとめ

今回は後藤象二郎の生涯について紹介しました。後藤の生涯を振り返ってみると、

  • 大政奉還を進言した後に王政復古の大号令が行われる
  • 蓬萊社を立ち上げたものの、2年足らずで倒産
  • 大同団結運動を提唱するものの、内閣に入閣した後で汚職で辞任する などなど。

後藤の人生は挑戦と挫折の連続でした。それでも後藤が最後まで諦めなかったのは、一度決めた事は最後までやり遂げようとする強い信念の持ち主だったからでしょう。

晩年は不遇だったものの、多くの人達が後藤の事を好意的に見ていた事からも、現在に生きる私達にはうかがえない魅力が後藤にはあったのでしょう。今回の記事を通じて後藤の生涯に興味を持ってもらえたら幸いです。

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