後藤象二郎とはどんな人?生涯・年表まとめ【龍馬との関係や大政奉還、子孫について紹介】

後藤象二郎の名言

友人を縛する手掛かりに、おれの記念せる写真を差し出せとは真平御免なり。

江藤新平が佐賀の乱を起こした時、後藤は江頭の顔写真を持ってました。警視庁は写真を差し出すように命じたところ、後藤はこのように答えたのでした。権力に屈せず、友を守るその度量こそが後藤の魅力なのでしょう。

我は数億円の借金がしてみたし

井上馨と汽車に同乗した時に、後藤は互いの抱負を語り合いました。井上は「我は数千萬円の財を造って見たし」と述べましたが、後藤は上記の台詞を述べました。後藤のスケールの大きさが分かる名言です。

後藤象二郎の人物相関図

こちら坂本龍馬の相関図ですが、後藤も土佐藩の主要人物として名を連ねています。

坂本龍馬と関係が深かった
出典:坂本龍馬人物伝

こちら後藤象二郎の家系図になります。後藤は岩崎弥太郎や松方正義、幣原喜重郎等、明治から昭和にかけて様々な功績を残した人物と縁戚関係にありました。

実は様々な偉人と縁戚関係にあった

後藤象二郎にまつわる都市伝説・武勇伝

都市伝説・武勇伝1「日本で初めてヴィトンの鞄を愛用?」

ルイ・ヴィトンの鞄

後藤はルイ・ヴィトンの鞄を愛用し、かつては日本で初めての顧客だと言われていました。ただ近年ではその説は崩れており、1878年に鮫島尚信と中野健明という人物が鞄を購入した事が判明しています。

後藤は1882〜1883年の間に立憲政治の視察の為に渡欧し、ヴィトン本店で板垣の為に鞄を購入しています。その鞄は高知市立自由民権記念館に現存されているそうです。

後藤がヴィトン購入者第一号ではなかったものの、早い段階で目をつけていたのは間違いありません。後藤の先見の明が良く分かるエピソードですね。

都市伝説・武勇伝2「借金まみれだった?金遣いも豪快だった」

後藤象二郎が立ち上げた蓬莱社

後藤はその豪快な性格から金遣いも荒かったのです。1867年には公金を使い、丸山遊郭で連日豪遊。それを怪しんだ谷干城が後藤の調査に来たものの、後藤の人格に惚れ込んで、逆に弁護側に回った事もあるそうです。

1874年には政治資金を得る為に蓬莱社を立ち上げます。海運から金融等、手広い業務を行いますがわずか3年半で倒産。後藤には莫大な借金が残りました。結果的に事業を岩崎弥太郎に売却しています。

このように金遣いの荒い後藤ですが、その度に助けてくれる人がいたようであり、後藤の人の良さを象徴しています。

また後藤の浪費癖は子供達にも受け継がれており、息子の猛太郎は留学先のオランダで莫大な借金を作り、象二郎から勘当されました。孫の保弥太も新橋の花街で「後藤の若様」と評される程、散財をしています。

血は争えないのかもしれませんね。

都市伝説・武勇伝3「実は坂本龍馬暗殺の黒幕だった?」

坂本龍馬を斬ったとされる刀

幕末最大の謎といえば坂本龍馬の暗殺です。薩摩藩・新選組等様々な説がありますが、後藤象二郎が黒幕だったという説はご存知でしょうか?

よく言われているのが「大政奉還の建白書」の手柄を独り占めする為、口封じに龍馬を暗殺したというものです。ただ龍馬の発案と言うのは土佐藩士の多くが知っており、口封じというのは無理が出てきます。

現実味があるのは経済的動機です。1867年4月に龍馬は「いろは丸事件」で紀州藩から7万両の賠償金を得ています。7万両は土佐商会に渡り、半分は事件で被害を被った大洲藩に支払われるはずがその形跡はありません。

一説では7万両を手にしたのは後藤と岩崎弥太郎であると言われます。2人は後に九十九商会を立ち上げており10万両もの金額を使い、インサイダー取引をしています。7万両がそれに使われたのかもしれません。

様々な憶測が流れる龍馬暗殺の真犯人ですが、早く手がかりが見つかると良いですね。

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