シェイクスピアは、16世紀後半から17世紀初頭にかけて活躍した、イングランドの劇作家です。主に『ロミオとジュリエット』や『ハムレット』などの四大悲劇に代表される、人間の心理描写に非常に優れた作品を数多く遺し、現在でも「最も偉大な英文学作家」としての名声をほしいままにしています。
また、劇作家としてだけでなく詩人としても才能を発揮しており、彼が遺した『ソネット詩集』という詩集も、これまた「世界最高の詩篇」として、現在でも読み継がれる有名なものになっています。
そのように、劇作と詩の分野で非常に名高い名声を残し、現在でも「一般常識」として語られたり取り上げられたりすることも多いシェイクスピア。しかしその一方で、その意外な読みにくさや敷居の高さから挫折してしまった方も多いのではないでしょうか?
ということでこの記事では、そんなシェイクスピアの作品についてだけでなく、「シェイクスピアという作家の歩んだ生涯」を中心として記事を纏め、その作品の理解の手助けにしていきたいと思います。
シェイクスピアとはどんな人物か
名前 | ウィリアム・シェイクスピア |
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誕生日 | 1564年4月23日(推定) |
没日 | 1616年4月23日(享年52歳) |
生地 | イングランド王国、ストラトフォード=アポン=エイヴォン |
没地 | イングランド王国、ストラトフォード=アポン=エイヴォン |
配偶者 | アン=ハサウェイ(1582年~1616年) |
子供 | スザンナ・ホール(長女)、ハムネット・シェイクスピア(長男)、ジュディス・クワイニー(次女)、ウィリアム・ダヴェナント(次男、落胤説もあり) |
代表作 | 『ロミオとジュリエット』『ハムレット』『夏の夜の夢』『ヴェニスの商人』『ソネット詩集』など |
埋葬場所 | イングランド王国、ストラトフォード=アポン=エイヴォン、ホーリー・トリニティ教会 |
シェイクスピアの生涯をハイライト
ウィリアム・シェイクスピアは、1564年にイングランド王国に生を受けました。誕生したその日の記録は残っていませんが、当時の新生児に対する洗礼などの慣例から考えるに、その誕生日は4月23日であるとされています。
シェイクスピア家は裕福な家で、父は市長を務めるほどの人物だったようですが、羊毛の闇市に関わったという疑いから、ウィリアムの少年時代にシェイクスピア家は没落してしまいました。
そのような理由もあってか、幼い頃のウィリアムの記録もあまり残ってはおらず、彼が幼少期にどのような子供だったのか。あるいはどのような教育を受けて、どのようなものに触れて育ったのかについては、ほとんどわかっていないのが現状です。
そして1582年、18歳のシェイクスピアはアン・ハサウェイと結婚。年の差のある結婚であり、いわゆる「できちゃった婚」だったようですが、この女性はシェイクスピアにとって、生涯唯一の妻となりました。
そしてアンとの結婚後しばらく、シェイクスピアの名前は再び表舞台から消えることになります。この数年間、シェイクスピアが何をしていたのかは全く記録に残っていません。その間のシェイクスピアについて、俗説は多数存在しますが、どれも彼の死後に書かれた記録が初出の情報のため、決め手に欠けているのが現状のようです。
そしてシェイクスピアが再び表舞台に名前を現したのは1592年頃。ロンドンの劇場に進出したシェイクスピアは、俳優と劇作家の二足の草鞋を履いて活動していた彼は、同業者から嫉妬されるほどの名声をこの時点で築き上げていたようです。
1594年ごろには、宮内大臣一座と称される劇団の共同所有者となり、同時にその本拠地であるグローブ座の共同株主になるなど、その名声を着々と高めていったことが記録されています。1603年に新たな国王としてジェームズ1世が即位した際には、ジェームズ1世自らがシェイクスピアの劇団への出資を約束し、劇団名を「国王一座」に変えさせたことからも、その名声の高まりは見て取れる事でしょう。
ウィリアムの成功はシェイクスピア家そのものにも栄光を与え、シェイクスピア家は経済的成功を背景として、1596年にジェントルマンの地位を獲得。このころのウィリアムはその名前だけで演劇に人がやってくるほどの成功を収めていたとされ、まさに彼にとっての絶頂期がこの時代だったと言えるでしょう。
その後も俳優であり劇作家として成功を収めていったシェイクスピアは、1613年に引退して故郷に引っ込むことに。そしてその3年後の1616年に、彼はニシンから受けた感染症によって、52年の生涯を閉じることになったのでした。
「悲劇だけではない」シェイクスピアの代表作
「シェイクスピアの作品」と聞いて、やはり一番早く思い浮かぶのは『マクベス』『ハムレット』などの四大悲劇、あるいは『ロミオとジュリエット』など、やはり悲劇的な作品が多いかと思います。巧みな人間心理の描写に定評のあるシェイクスピア作品の魅力は、確かに悲劇的な物語の方が伝わりやすいのかもしれません。
しかし、シェイクスピアの評価が高まり始めた1590年代前半、彼が好んで執筆していたのは、悲劇ではなく史劇。3部作である『ヘンリー6世』や『リチャード3世』などの真面目な史劇こそが、初期のシェイクスピアの名声を支えていたのです。
他にも、『間違いの喜劇』や『じゃじゃ馬ならし』などの喜劇も数多く執筆しており、あの有名な『ヴェニスの商人』なんかも、分類上は喜劇にあたるとされています。
人間の心理を巧みに揺さぶる悲劇が有名なシェイクスピアですが、その他の形式に分類される作品も、紛れもない名作揃いであることには疑う余地がありません。
「シェイクスピアの四大悲劇」とは?
「シェイクスピアの四大悲劇」とは、シェイクスピアが執筆した悲劇の中でも特に名高い四つの作品をあらわす言葉です。
その四つの作品というのは『マクベス』『ハムレット』『リア王』『オセロー』の四作品。そのどれもが、シェイクスピアの人間観察力が惜しみなく発揮された名作であり、読む者の感情をダイレクトに揺さぶってくる、今でも読み継がれるだけの理由がある名作です。
「To be, or not to be: that is the question.(生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ)」のような、シェイクスピアを代表する名言が多数収録されているという意味でも、読んで損はない作品群ですので、皆様も是非映画や舞台などの作品に触れてみていただくか、書籍としてまとめられたものをお読みになっていただきたいなと思います。
シェイクスピアの本当の職業とは
『シェイクスピア名作選』『シェイクスピア全集』などが数多く出版され、「シェイクスピア作品を読んでいないのは常識知らずだ!」とまで言われることもあるシェイクスピア。その主張の是非はともかく、シェイクスピア作品がそれほど有名なのは皆さんも知っての通りです。
しかし、シェイクスピアの職業というのは、実は「読者に読ませる文章を書く人物=小説家」ではなかったことはご存知でしょうか?
記事冒頭の部分でも書かせていただいた通り、シェイクスピアの職業というのは、実は小説家ではなく”劇作家”。つまり彼は、観客や顧客に向けて文章を書いていたのではなく、舞台を演じる役者のために文章を書き、その作中の世界を舞台として演出することを生業としていたのです。
そう言った部分から考えると「シェイクスピアを読んだことがない」というのは、実はシェイクスピアの生業からすれば、役者でもない限り当たり前の事。むしろ、地の文などがないことから読みづらさを感じることも多いのがシェイクスピア作品ですので、その場合は映画や演劇など、役者の演技に触れる形で作品を楽しんでみるのも、またオツなものではないのかな、と思います。
シェイクスピアの直系の子孫は、現代にも存在するのか?
文学界や作劇の分野に偉大な功績を残したシェイクスピア。彼は生涯に4人の子供を成したため、少なくともその血縁が一代後まで続いたことは確認できます。しかし、その子孫が現代にも存在しているのか、という問いについては、残念ながら答えは「否」だと言わざるを得ません。
シェイクスピアの嫡子である男子のハムネットは、11歳という若さでこの世を去ってしまい、遺された嫡子であるスザンナとジュディスはいずれも女子であったため、「シェイクスピア」という家名は彼のこの代で途絶えてしまっていることになります。
また、ジュディスとスザンナには二人合わせて4人の子――つまり、シェイクスピアには4人の孫が存在しましたが、その孫たちの内3人は若くして死去。唯一天寿を全うしたとされるスザンナの長女・エリザベスも、子をなすことなくこの世を去ったため、そこでシェイクスピアの直系の子孫は途絶えてしまったと言えるでしょう。
非嫡出子であるとされる次男、ウィリアム・ダヴェナントを家系に加えたとしても、ダヴェナントの息子たちが子を残したという記録も確認できないため、残念ながらウィリアム・シェイクスピアの血筋は、1670年代には途絶えてしまったと言えそうです。
シェイクスピアの晩年と最期、そして現在
1613年に俳優業と劇作家業を引退したシェイクスピアは、有り余る財を使って故郷にニュー・プレイスという家を購入。そこを終の棲家として余生を送りました。
故郷に引っ込んだ後のシェイクスピアについての記録は非常に少なく、彼の余生の実情を知る術はほとんどありません。ただ一つ、娘のジュディスの夫、トマス・クワイニーにまつわる醜聞については記録が残されています。
シェイクスピアはトマスが告発されたことで、自分が残すことになる遺産がトマスの遊興や放蕩に使われることを危惧。ジュディスに渡す遺産に関わる遺言を訂正したことが伝わっています。
そして引退から3年が経過した、1616年の4月23日。奇しくも自身の誕生日と同じ日に、ウィリアム・シェイクスピアは天国へ旅立ちました。死因は感染症であり、感染源となったのは腐ったニシンであったとされていますが、詳細は不明となっているようです。
その後、シェイクスピアの遺体は、ストラトフォード・アポン・エイヴォンにあるホーリー・トリニティ教会の内陣に埋葬されました。内陣への埋葬は、余程の名声があるか、余程の高額納税者でなくては叶わない名誉であり、シェイクスピアは後者の理由で、内陣への埋葬を認められたのだと言われています。
その墓所に近い壁には、家族によって建立されたと思われる記念碑とシェイクスピアの胸像が存在し、シェイクスピアの誕生日とされる4月23日には、胸像の持つ羽ペンを新しいものに取り換える儀式が、現代でも続けられています。
また、彼の墓の中には副葬品として、未発表の作品の原稿が眠っているという噂もささやかれていますが、当然ながら確かめた者はおらず、真相は今も不明のままになっているようです。
現代日本におけるシェイクスピアの姿
Googleで「シェイクスピア」と検索すると、サジェストには「シェイクスピア fgo」や「シェイクスピア モンスト」などの検索候補が表示されます。このように、現代日本におけるシェイクスピアは、作家としてだけでなくキャラクターとしても親しまれているのです。
検索候補における「fgo(『Fate/Grand Order』)」では、最初期から登場するキャラクターとして、多くのプレイヤーから親しまれています。
自身の著作をこよなく愛し、その中の名言を会話に交えながら場を引っ掻き回すトリックスターのポジションのキャラクターであり、多くのストーリーに登場する名脇役としてプレイヤーに強い印象を与える人物です。
「モンスト(『モンスターストライク』)」におけるシェイクスピアも、軽妙な伊達男であると同時に、どこか危うい一面が見えるキャラクターとしてデザインされ、現代日本におけるシェイクスピアのイメージを作るキャラとなっています。
現代日本におけるシェイクスピアの名前は、単なる「偉大な劇作家」というだけにとどまらず、エンタメの分野においても様々な作品で扱われています。
「エンタメ作品のシェイクスピアは好きだけど、作品を読むのはちょっと敷居が高い…」
そう思っている方も、シェイクスピアの作品を読むことで、エンタメ作品の方への理解も高まること間違いありません。これを機会にぜひ挑戦してみてください!
シェイクスピアの作品年表まとめ
※(”( )”内は発表年)
史劇
- ヘンリー六世 第1部(1589年 ~ 1590年)
- ヘンリー六世 第2部(1590年 ~ 1591年)
- ヘンリー六世 第3部(1590年 ~ 1591年)
- リチャード三世(1592年 ~ 1593年)
- ジョン王(1594年 ~ 1596年)
- リチャード二世(1595年)
- ヘンリー四世 第1部(1596年 ~ 1597年)
- ヘンリー四世 第2部(1598年)
- ヘンリー五世(1599年)
- ヘンリー八世(1612 ~ 1613年)
悲劇
- タイタス・アンドロニカス(1593 ~ 94年)
- ロミオとジュリエット(1595 ~ 96年)
- ジュリアス・シーザー(1599年)
- ハムレット(1600 ~ 01年)
- トロイラスとクレシダ(1601 ~ 02年)
- オセロー(1604年)
- リア王(1605年)
- マクベス(1606年)
- アントニーとクレオパトラ(1606年 ~ 1607年)
- コリオレイナス(1607年 ~ 1608年)
- アテネのタイモン(1607年 ~ 1608年)
喜劇
- 間違いの喜劇(1592年 ~ 1594年)
- じゃじゃ馬ならし(1593年 ~ 1594年)
- ヴェローナの二紳士(1594年)
- 恋の骨折り損(1594年 ~ 1595年)
- 夏の夜の夢(1595年 ~ 96年)
- ヴェニスの商人(1596年 ~ 1597年)
- ウィンザーの陽気な女房たち(1597年)
- 空騒ぎ(1598年 ~ 1599年)
- お気に召すまま(1599年)
- 十二夜(1601年 ~ 1602年)
- 終わりよければ全てよし(1602年 ~ 1603年)
- 尺には尺を(1604年)
- ペリクリーズ(1607年 ~ 1608年)
- シンベリン(1609 ~ 1610年)
- 冬物語(1610年 ~ 1611年)
- テンペスト(1611年)
- 二人のいとこの貴公子(1613年)
詩
- ヴィーナスとアドーニス(1593年)
- ルークリース凌辱(1594年)
- 情熱の巡礼者(1599年)
- 不死鳥と雉鳩(1601年)
- 恋人の嘆き(1609年)
- ソネット集(1609年)
シェイクスピアの功績
功績1「『最も優れた英文学作家』という評価」
シェイクスピアという人物の評価を最も端的に示しているのは、やはり「最も優れた英文学作家」という単純で分かりやすい言葉でしょう。
人間の心理を巧みに読み解き、『ロミオとジュリエット』のような悲恋、『マクベス』のような因果応報、『ハムレット』のような復讐劇と、現代にも繋がる多くの作品を作った功績は、そうした評価を得るに相応しいものである事に、疑う余地はありません。
また、2002年にBBC(英国放送協会)が行った「100名の最も偉大な英国人」では、シェイクスピアは第5位としてノミネート。また、童話で有名なハンス・クリスチャン・アンデルセンや、日本文学における夏目漱石に影響を与えたとも目されており、シェイクスピアの作品は文字通りに時代を超え、多くの作家のインスピレーションの源流ともなっているのです。
功績2「同業者からの嫉妬を得た下積み時代」
1592年ごろにロンドンの劇場に進出し、俳優業の傍らで劇作家としての活動を行っていたシェイクスピア。当時のシェイクスピアは、俳優としても劇作家としても新人のようなものでしたが、主に脚本の分野においては、確かに後に名声を得るだけの片鱗を見せていたのだといいます。
その才能の片鱗は、当時のロンドンで劇作家として活動していた同業者からの嫉妬を得るほどであったらしく、とりわけロバート・グリーンは、著書である『三文の知恵』の中で、
役者の皮を被ってはいるが心は虎も同然の、我々の羽毛で着飾った成り上がりのカラスが近ごろ現われ、諸君の中でも最良の書き手と同じくらい優れたブランク・ヴァースを自分も紡ぎうると慢心している。
たかが何でも屋の分際で、自分こそが国内で唯一の舞台を揺るがす者(Shake-scene)であると自惚れている
と、その批判対象の名前こそ「Shake-scene」と隠してはいるものの、状況的にシェイクスピアの事だろう人物を痛烈に批判しています。嫉妬交じりなことが明らかに透けているこの文章は、グリーンがシェイクスピアを悪し様にではありますが意識していたことがよくわかる文章として、シェイクスピア研究の対象にもなっているのです。
と、このように同業者からの嫉妬を得るほどだった下積み時代のシェイクスピア。経験の中で磨き抜かれた部分も大きいシェイクスピア作品ですが、彼が元々凄まじい才能を持っていたことも、この事実から読み取ることができるでしょう。
功績3「現代でも使われる?シェイクスピアが作った”造語”」
「バズる」「食育」「ネチケット」「ブログ」など、社会の中では日々様々な造語が生まれ、常識として定着、あるいは定着せずに消えていきます。例に挙げた中でも「食育」「ブログ」なんかは、比較的最近生まれた造語だと知らない方も多いのではないでしょうか?
そして実は、現在は英語の単語帳に乗っているような言葉でも、その初出がシェイクスピアが作った造語である、ということも実はそれなりに存在しています。ということで、幾つかその例を見ていきましょう。
hurry
「急ぐ」という意味の英単語。主に「Hurry up !!(急げ!)」等の使い方をされ、日本でも比較的早い段階で習う英語だと思います。
しかし実はこれはシェイクスピアが作った単語。初出は『ヘンリー6世』という史劇で、実は「harry」という単語のスペルミスだったという説もささやかれているようです。
Critical
「批判的な~」「致命的な~」といった意味の英単語。ゲーム好きの方なんかであれば「クリティカルヒット」なんかの使い方が馴染み深いかと思います。
そしてこれもシェイクスピアによって作られた言葉。ラテン語の「criticus」という単語が元になっており、『オセロー』におけるイアーゴーのセリフが初出となっています。
Undress
否定形の”Un”に「着る」の意味の”dress”から察せる通り「脱ぐ」という意味の英単語です。初出は『じゃじゃ馬慣らし』のセリフから。
意外とわかりやすい語のつながりではありますが、その分シェイクスピアの類稀な言語センスが読み取れる造語の作られ方だと言えるでしょう。
と、このようにシェイクスピアが作った言葉というのは、実はけっこう多いもの。例に挙げたものはあくまで一部に過ぎませんので、皆さんも興味がありましたら是非、そういった「シェイクスピア製の造語」を探してみてほしいと思います。
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