1600年 – 36歳「『ハムレット』」
『ハムレット』
この年、シェイクスピアは後に四大悲劇と称される『ハムレット』を執筆。観察眼の鋭さを見せる作風で、報われない復讐劇を描き切り、高い評価を得ました。
以降のシェイクスピアは、悲劇と喜劇を数年の間に幾本も執筆して、そのほぼ全てで高い評価を獲得するなど、まさに絶頂期と呼べるような活躍を見せることになります。
1601年 – 37歳「エセックス伯の反乱により、宮内大臣一座が諮問を受ける」
エセックス伯の反乱事件
この年、エセックス伯であるロバート・デヴァルーが、エリザベス女王の側近であるロバート・セシルを排除しようとクーデターを起こして失敗。その咎で処刑されるという事件が起きました。
この事件において、宮内大臣一座のパトロンだったサウスサンプトン伯もエセックス伯と内通した疑いをかけられ、連鎖的に宮内大臣一座も諮問を受けることになってしまいます。
諮問の内容は「反乱の前日に上演していた史劇『リチャード二世』に、反乱を誘発させるような意思はなかったか」という部分でしたが、幸いにも一座のメンバーに罰が下ることはなく、サウスサンプトン伯も後に赦免される形で、一座は存続することとなりました。
1603年 – 39歳「新王の即位により、宮内大臣一座から「国王一座」へと改称」
宮内大臣一座から「国王一座」へ
この年の3月24日にエリザベス女王が崩御し、その後の5月に新王として、スコットランド王だったジェームズ1世が即位しました。
ジェームズ1世は即位の際、宮内大臣一座のパトロンとして名乗りを上げ、これによって宮内大臣一座は「国王一座」に改称。国王お抱えの劇団の顔として、シェイクスピアの名声はさらに国中に轟くことになりました。
国王一座は翌年の、ジェームズ1世の入場行進に参加したことも記録されており、シェイクスピアの名前はその筆頭として文書に記録されています。また、シェイクスピアに対してお仕着せ用の真紅の布が下賜されたことも記録されており、彼に対する評価の高さを物語っています。
1604年~1605年 – 40歳~41歳「『オセロー』『リア王』『マクベス』」
『オセロー』
国王一座の看板作家となった翌年、シェイクスピアは悲劇『オセロー』を発表。疑心に憑りつかれる人間の弱さを描いたこの悲劇的な作品は、四大悲劇の中ではもっとも単純で分かりやすい物語として、今も全世界的に親しまれています。
また、誰もが知っているゲーム「オセロ」の名前の由来となったのもこの作品です。読む、もしくは観てみることでその由来が理解できる作品ですので、ぜひ手に取ってみてほしいと思います。
『リア王』『マクベス』
『オセロー』の発表の翌年にあたる1605年、シェイクスピアは『リア王』と『マクベス』を続けざまに刊行。今までの悲劇作品とはまた違った悲劇を作り出し、これも高い評価を得ました。
高い地位にあった人物が、周囲の人物や状況に翻弄されて身を持ち崩して絶望の末に死に至る、という物語のラインは似ていますが、それぞれに魅力的な作風を持つ作品群ですので、悲劇趣味の方には何を置いてもお勧めしたいに作品だと言えるでしょう。
その頃のシェイクスピアは…
国王一座の看板として、発表する作品のほぼ全てが高い評価を得ていたシェイクスピアは、この頃の作風に反してまさに絶頂期にいたと言ってもよいでしょう。
この頃の商取引などの公文書によると、シェイクスピアはロンドンのブラックフライヤーズにある不動産や、故郷であるストラトフォード=アポン=エイヴォンにある2番目に大きい邸宅などを購入し、様々な資産運用を行っていたと思しき記録が残されています。
この時購入したストラトフォード=アポン=エイヴォンの邸宅こそが、後にシェイクスピアの終の棲家であるニュー・プレイスです。
1607年~1608年 – 43歳~44歳「長女・スザンナの結婚、そして孫の誕生」
長女の結婚
1607年に、シェイクスピアの長女であるスザンナが結婚。相手はストラトフォードに住む医師であり、ジェントルマンの爵位を持つジョン・ホールでした。
この結婚についての記録はほとんど残されておらず、子供たちが生まれた時と同様に、シェイクスピアが娘婿であるジョンにどのように接していたのかを知ることも出来ません。
初孫、エリザベス・ホールの誕生。
1608年に、スザンナはジョンの子を出産。エリザベスと名付けられたその子は、後にシェイクスピアの直系の血を引く最後の人物となりました。
しかし、この初孫の誕生についてもシェイクスピアの記録は残っておらず、家族の観点からシェイクスピアの人物像を知ることは、非常に難しくなっているようです。
1609年 – 45歳「『ソネット詩集』が出版される」
『ソネット詩集』の出版
この年、シェイクスピアがソネット形式で書いた詩を纏めた『ソネット詩集』が出版されました。
しかしこの当時出版されたものは、トマス・ソープという人物による非公式の出版だったとされ、「W・H」という誰かに献呈されているなど、多くの謎を残す出版物ともなっています。
『ソネット詩集』の評価は…?
現在でこそ様々な国の言葉に翻訳され、高い評価を得ているシェイクスピアのソネット詩ですが、『ソネット詩集』が出版された当時は、むしろ不評の声が大きかったという記録が残されています。
そのような評価の理由は分かっていませんが、当時のシェイクスピアの名声に陰りが見えていたのか、それとも何か別の要因があったのか。想像して調査してみるのも面白いかもしれません。