シェイクスピアとはどんな人?生涯・年表まとめ【作品や名言も紹介】

1589年 – 25歳「『ヘンリー6世・第一部』を発表」

史劇の元となったイングランド王、ヘンリー6世の肖像画

劇作家としての歩みが記録される

シェイクスピアはこの年、史劇『ヘンリー6世』の執筆を終えたとされています。

実在したイングランド王、ヘンリー6世を題材にしたこの史劇は、全3部作として構成され、愛国的でありながらシェイクスピア節を感じさせる、シェイクスピア初期の史劇として名高い作品です。

なお、この作品の公演は、1592年のストレンジ卿一座による講演が最初であるとされており、このことから”The Lost Years”の最中のシェイクスピアは、ストレンジ卿一座に参加していた、と唱える研究者も存在しているようです。

また、翌年には立て続けに『ヘンリー6世・第二部』『ヘンリー6世・第三部』の執筆も行い、旺盛な執筆活動を展開したと思われる記録が残されています。

1592年頃 – 28歳「ロンドンに進出するも、ペストの流行により劇場封鎖」

ロンドンで猛威を振るったペストの蔓延は、シェイクスピアの活動にも多大な影響を与えた。

ロンドンへの進出

ロバート・グリーンによる嫉妬交じりの記載によって、この年には既にシェイクスピアがロンドンの劇場に進出していたことが分かっています。このグリーンの文章は、シェイクスピアのロンドン進出だけでなく、この時点ですでにシェイクスピアが「中傷を受けるほど」の一定の評価を得ていたことも示していると言えるでしょう。

また、グリーンの記述から読み取るには、ロンドンに進出したシェイクスピアの本業は俳優だったようですが、次第に劇作家としての評価が高まっていき、最終的には劇作家の方が本業として扱われるようになっていたようです。

当時のシェイクスピアの本業が俳優だったことは、後の劇作家としてのセンスにも多大な影響を与えていますが、その一方で俳優としての評価は「可もなく不可もなく」という程度であったとも言われています。

ペストの流行により劇場が封鎖

ペストによって死屍累々となった街を描いたヨーロッパの絵画

1592年のロンドンでは、ペストが猛威を振るうことになり、シェイクスピアらの仕事の場である劇場は、感染拡大を防ぐために次々と封鎖される憂き目にあってしまいました。

この封鎖は1594年まで続き、多くの劇団が存続の危機に立たされることとなりますが、シェイクスピアはこの劇場封鎖の期間中、新たな執筆活動を展開するとともに、新たな才能を開花させることになるのです。

1593年~1594年 – 29歳~30歳「『じゃじゃ馬ならし』の執筆、そして詩作の開始」

シェイクスピアが詩作に影響を受けたと目される『ルクレーティアの凌辱』(ティツィアーノ画)

『じゃじゃ馬ならし』

劇場が封鎖されている間も、シェイクスピアは劇作家として旺盛な執筆活動を展開していきました。

1593年(1594年説もあり)に執筆されたとされる『じゃじゃ馬ならし』は、現在も様々な形で翻案が行われている喜劇であり、1999年のドラマ『恋のからさわぎ』もこの作品の翻案作品となっています。

元となった『じゃじゃ馬ならし』は、現在の価値観とはあまり相容れないタイプの喜劇ですが、当時の男女関係における心理がよくわかる作品でもあるため、歴史に興味がある方はぜひ一度観劇してみてください。

『ヴィーナスとアドーニス』『ルークリース凌辱』

ティツィアーノ・ヴェチェッリオによる絵画『ヴィーナスとアドーニス』

劇場が封鎖されている間、シェイクスピアは戯曲の執筆と並行して詩の執筆も展開。この時に執筆されたのが『ヴィーナスとアドーニス』『ルークリース凌辱』という二篇の物語詩です。

愛や性をテーマにしたと思われるこれらの二篇の作品は、シェイクスピアの名声をさらに高める評価を受け、以降彼は細々とではありますが詩人としての執筆活動も行っていくことになります。

ただし、詩作による収入はさほど多いものではなかったらしく、彼の絶頂期にあたる後期頃になってくると、作る詩の数は目に見えて減少していくことになりました。

1594年 – 30歳「宮内大臣一座に参加」

宮内大臣一座が本拠地としていたグローブ座は、現在は復元され、観光名所となっている。

宮内大臣一座

ロンドンの劇場封鎖が解除され、それと同時にシェイクスピアは、ハンズドン男爵をパトロンとする宮内大臣一座に参加することになりました。

宮内大臣一座には、シェイクスピアの初期の活動を支えたストレンジ卿一座のメンバーが数多く参加しており、ロンドンの劇場封鎖の解除と共に、シェイクスピアはかつてない好条件で再スタートを切ったと言えるでしょう。

宮内大臣一座の共同経営者に

また、当時の時点で名声をほしいままにしていたシェイクスピアは、宮内大臣一座の共同所有者の一人として名を連ねていたことも記録されています。

他にも、宮内大臣一座の本拠地であるグローブ座の共同株主になっていたことも記録されており、この時点でシェイクスピアの名声は飛ぶ鳥を落とす勢いだったことがわかります。

1595年 – 31歳「『ロミオとジュリエット』『夏の夜の夢』」

悲恋劇の代表格である『ロミオとジュリエット』は、現在も様々な形で翻案が行われる、シェイクスピアの代表作
出典:Wikipedia

『ロミオとジュリエット』

宮内大臣一座お抱えの劇作家として、順風満帆に執筆活動を展開していくシェイクスピア。そして彼はこの年、あの名作である『ロミオとジュリエット』を世に送り出しました。

悲恋を描いた作品として世界的に名高いこの作品は、シェイクスピアらしい観察眼の鋭さが現れた作品として、現在でも全世界的に翻案が行われる大ヒット作品となりました。

『夏の夜の夢』

また、彼はこの年に『夏の夜の夢』と呼ばれる作品も執筆。少しドタバタ劇のようなコミカルさを持ったこの喜劇は、『ロミオとジュリエット』とはまた違う魅力的な恋愛劇となっています。

作品そのものの有名さで言えば『ロミオとジュリエット』には及びませんが、どこか現代的なライトノベルを彷彿とさせる幻想的な世界観は、ハマる人にはどっぷりハマる作品となっていますので、シェイクスピア作品に敷居の高さを感じている方は、この作品からシェイクスピアを読み始めてみることをお勧めいたします。

1596年 – 32歳「『ヴェニスの商人』――そして相次ぐ幸と不幸」

シェイクスピアの戯曲の中でも有名な『ヴェニスの商人』。しかしその執筆期は、シェイクスピアにとって激動の期間でもあった…。

『ヴェニスの商人』

『ロミオとジュリエット』や四大悲劇に劣らない知名度を持つ『ヴェニスの商人』が執筆されたのがこの年です。現在も様々な形で翻案が行われ、日本でも親しまれているこの作品ですが、実は現代とは価値観的に馴染まず、議論の火種となっている作品にもなっています。

分類上は”喜劇”とされていますが、この作品を読んで何を感じるかは読者次第。思想の範囲を広げる意味でも、一度元となった作品に触れてみてほしいと思います。

シェイクスピア家、”ジェントルマン”の爵位を得る

シェイクスピア家の紋章。“Non sanz droict(権利無からざるべし(フランス語))”という言葉に、シェイクスピアの不安が表れている

シェイクスピアの父、ジョンがかねてより切望していた爵位の地位がこの年にようやく認められ、シェイクスピア家は晴れてジェントルマンとして爵位を得ることになりました。

これはシェイクスピアの経済的成功によるところが非常に大きかったようで、当初は彼もこのことを喜んでいたようですが、次第にその喜びは「いつかこの地位を失うかもしれない」という不安に変わり、シェイクスピアはより一層執筆活動に励むことになっていきました。

長男、ハムネットの急逝

劇作家としての成功や、爵位を得たことなど、幸福が続いたシェイクスピア家でしたが、そこに突如として悲劇が襲い掛かりました。

長男であったハムネットの急逝。原因などは記録されておらず、シェイクスピアがその死に何を思ったのかも同様に記録されていませんが、この数年後に”四大悲劇”と称される作品が立て続けに発表されていることを見るに、その死がシェイクスピアに影響を与えたことは間違いないように思えます。

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