シェイクスピアの簡単年表
この年の4月26日に、ストラトフォード=アポン=ウェイヴォンのホーリー・トリニティ教会で洗礼を受けたという記録が、ウィリアム・シェイクスピアが誕生したことを示す最初の記録です。
当時の洗礼にまつわる慣習から、その誕生日は4月23日だというのが通説となっていますが、実は確たる証拠は現在も存在していません。
市長を務めたウィリアムの父、ジョン・シェイクスピアでしたが、この年には家と土地を担保に借金をした記録が残っています。理由は不明ですが、羊毛の闇市に関わった疑いをかけられたことが原因となっているようです。
この年、シェイクスピアは8歳年上のアン・ハサウェイと結婚します。結婚式の時点でアンは妊娠していたらしく、この結婚は現代的に言う「できちゃった婚」だという説が濃厚だと言われています。
1583年に長女であるスザンナが、1585年に双子として、長男のハムネットと次女のジュディスの誕生が記録されています。
しかし、この期間中のシェイクスピア自身に関する記録はほとんどなく、今でもこの期間は「The Lost Years」として、多くの研究者が研究対象にしています。
史劇『ヘンリー6世』の第一部を発表。シェイクスピア初期の作品として、後の彼の有名を支えることとなりました。その翌年には第二部と第三部も立て続けに執筆を行い、この付近からシェイクスピアは、俳優兼劇作家としての道を歩み始めたようです。
ロバート・グリーンによる言及により、この時期にシェイクスピアがロンドンに進出していた事が明らかになっています。
しかし、当時のロンドンにペストが流行したことで劇場が封鎖。しかしこの2年間の間に、彼は詩人としての才能も花開かせることになります。
劇場が封鎖されている間も、シェイクスピアは旺盛な執筆活動を展開。『じゃじゃ馬ならし』に代表される喜劇や、『ヴィーナスとアドーニス』『ルークリース凌辱』などの詩も執筆し、詩人としての才能も開花させました。
この年の終わりごろ、シェイクスピアは宮内大臣一座に参加。それと同時に宮内大臣一座の劇団の共同所有者や、本拠地であるグローブ座の共同株主としても記録され、当時のシェイクスピアの有名を物語っています。
この年にシェイクスピアは『ロミオとジュリエット』『夏の夜の夢』などを執筆。一般的に言われる「シェイクスピア作品」は、この年以降に描かれた作品がほとんどです。
この年、シェイクスピアは『ヴェニスの商人』を執筆。しかしそれと同時に、長男であるハムネットが急逝してしまうという悲劇にも見舞われました。
しかし、シェイクスピア家がジェントルマンの称号を与えられ、紋章を得たのもこの年で、シェイクスピアにとって1596年は激動の年だったと言ってもよいでしょう。
四大悲劇の一つである『ハムレット』が完成したのがこの年です。また、出版組合の登録簿に、この年に初めてシェイクスピアの名前が現れています。
エセックス伯爵の反乱が勃発し、シェイクスピアのパトロンだったサザンプトン伯爵もロンドン塔に幽閉されるという事件が発生します。シェイクスピアら宮内大臣一座の面々も諮問を受けることになりましたが、幸いなことに彼らが咎を受けることはなかったようです。
エリザベス女王が崩御したことで、後任にスコットランド王であるジェイムズ6世が即位。彼が宮内大臣一座のパトロンになったことで、一座は「国王一座」へと改称することになりました。
1604年に『オセロー』、1605年に『リア王』と『マクベス』を執筆し、これにより後の四大悲劇が出そろう形となりました。この頃のシェイクスピアは、様々な資産運用を行っていたらしい記録が残されています。
1607年に、長女であるスザンナが、医師であるジョン・ホールと結婚。その翌年には孫にあたるエリザベスが誕生しました。エリザベスは後に、公的にシェイクスピアの血を受け継ぐ最後の一人となりました。
この年、シェイクスピアのソネット詩を纏めた『ソネット詩集』が出版されました。これは非公式の出版であり、現在でこそ高い評価を得ていますが、出版当時のイングランドではむしろ不評だったとされています。
シェイクスピアの最後の作品だと言われる『テンペスト』が発表。ロマンス劇と呼ばれるこの作品は、「シェイクスピア作品の中でもっとも独創的な作品」と評されています。
この年以降、シェイクスピアが作品の執筆を行っていたという記録はなく、彼は少なくとも1613年時点では、ロンドンを離れてストラトフォード=アポン=エイヴォンに隠居していたと見られています。
この年の4月23日、シェイクスピアは感染症でこの世を去ることになりました。その二日後にはホーリー・トリニティ教会の内陣への埋葬が行われ、その地には現在も多くのシェイクスピアファンが訪れています。
国王一座の同僚だったジョン・ヘミングスとヘンリー・コンデルによって、シェイクスピアの戯曲集『ファースト・フォリオ』が刊行。死して尚、ウィリアム・シェイクスピアという人物の影響を、世に知らしめることになったようです。
シェイクスピアの年表
1564年 – 0歳「ストラトフォード=アポン=エイヴォンに生を受ける」
4月26日、洗礼を受けたことが記録される
1564年4月26日に、ホーリー・トリニティ教会で洗礼を受けた子供の一人。それこそが、ウィリアム・シェイクスピアという人物についての最初の記録だと言われています。
当時の行政において「出生証明書」等は発行されておらず、実はシェイクスピアの本当の誕生日というのは、現在でも記録から読み解くことはできていません。
しかし、当時の慣例として「洗礼は、誕生の3日後に行われる」というものがあり、そのためシェイクスピアの誕生日は、1564年の4月23日であると言う説が有力視されています。
謎に包まれた幼少期
ウィリアム・シェイクスピアは、裕福な家系の3人目の子として生まれましたが、その幼少期の記録はほとんど残されていません。
ストラトフォードの中心部に存在したグラマー・スクール、エドワード6世校に通ったと記録されている書籍も存在しますが、学籍簿などの記録が散逸してしまっているため、実際にシェイクスピアがこの学校で教育を受けたのかは不明なままとなっています。
しかし、シェイクスピアの初期の戯曲である『間違いの喜劇』に、エドワード6世校で学んだ影響とみられる部分が存在することから、彼がエドワード6世校で教育を受けたという説については、非常に有力な説であると言えそうです。
1578年 – 14歳「シェイクスピア家の経済不安~父の借金の記録~」
父の借金の記録
ウィリアムが生まれたシェイクスピア家は裕福な家系であり、父であるジョンは有力な手袋職人として、市の参事会議員などにも指名されるような名士でした。
しかし、この年になるとシェイクスピア家の経済事情には些かの不安が生じてきたようで、ジョンはこの年、家と土地を担保に高額な借金を行っていたことが記録されています。
借金の理由そのものは不明ですが、羊毛の闇市場に関わった疑いで起訴され、市長職を失ったことなどが原因であると見られています。
1582年 – 18歳「アン・ハサウェイとの結婚」
8歳年上の女性、アン・ハサウェイと結婚
この年、シェイクスピアは8歳年上の女性、アン・ハサウェイと結婚しました。
アンはシェイクスピア家の近所に住んでいた女性で、ウィリアムとの結婚式のときには既に妊娠していたとの記録から、二人の結婚はいわゆる「できちゃった婚」だったとされているのが定説です。
ただ、二人の夫婦仲については研究者によって意見が分かれており、シェイクスピアが生涯アンと離婚をしなかったことから「夫婦仲は良好だった」とする説と、シェイクスピアの遺言の内容が、アンに対して冷酷とも受け取れるものだったことから「夫婦仲は悪かった」とする説が、現在も拮抗しているようです。
1583年~1588年 – 19歳~24歳「The Lost Years」
3人の子供たちの誕生
1583年の5月23日には長女であるスザンナが。その2年後である1585年の1月には双子として、長男のハムネットと次女のジュディスが誕生したことが記録されています。ハムネットとジュディスの名前は、シェイクスピアの友人のパン屋の夫婦から付けられたそうです。
しかし、そんな子供たちに対してシェイクスピアがどのように関わったのかについても、公的な記録は全く残っておらず、シェイクスピアの人物像を知ることを難しくしています。
”The Lost Years”
1583年から1588年までの5年間は、シェイクスピア研究においては「The Lost Years」と呼ばれています。
その言葉が示す通り、この5年間のシェイクスピアの記録はどこにも残っておらず、彼が何をしていたのか、あるいは彼は何故劇作家としてデビューしたのか等については、そのことごとくが謎に包まれているのが現状です。
この期間中のシェイクスピアについては「鹿泥棒をして故郷を追われた」「田舎の教師をしていた」「ロンドンの劇場主の所有する馬の世話をしていた」などの伝説も残っていますが、いずれも記録のない、シェイクスピアの死後に広まった噂でしかないため、やはりこの期間中のシェイクスピアの足取りを知ることは、現代ではほぼ不可能だと言ってもよいでしょう。