黒田官兵衛は、戦国時代から江戸時代最初期にかけて活躍した武将です。その知略と政治的な手腕、卓越した交渉力で名が知られた軍師であり、主に織田信長や豊臣秀吉の下で、その能力を惜しみなく発揮。後の世で“三英傑”と称される彼らの天下取りに、その頭脳を持って大きく貢献をしました。
その反面、大変な野心家でもあったとも語られており、秀吉からの信頼は非常に厚かった半面、晩年の秀吉は家康よりも官兵衛を恐れ、半ば冷遇していたとも言われています。
2014年の大河ドラマ『軍師官兵衛』では主題となり、現在では広く名が知られる人物となった官兵衛。ですが実のところ彼がどのような事業を成したのか、あるいは彼がどのような人物だったのかについては、あまり知られていないところもあるかと思います。
この記事では、そんな黒田官兵衛のとはどんな人物だったのか?年表や俗説を交えながら紹介していきたいと思います。
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フリーライター、mizuumi(ミズウミ)。大学にて日本史や世界史を中心に、哲学史や法史など幅広い分野の歴史を4年間学ぶ。卒業後は図書館での勤務経験を経てフリーライターへ。独学期間も含めると歴史を学んだ期間は20年にも及ぶ。現在はシナリオライターとしても活動し、歴史を扱うゲームの監修などにも従事。
黒田官兵衛とはどんな人か?
名前 | 黒田孝高 |
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通称 | 黒田官兵衛もしくは黒田如水 |
誕生日 | 1546年12月22日 |
生地 | 播磨国・姫路・姫路城(現在の兵庫県姫路市) |
没日 | 1604年4月19日(59歳) |
没地 | 京都伏見藩邸(現在の深草大亀谷敦賀町近辺) |
配偶者 | 櫛橋光(くしはしてる) |
埋葬場所 | 博多郊外、キリシタン墓地近辺の松林 (墓所は福岡、京都、和歌山などに現存) |
黒田官兵衛の生涯をハイライト
黒田官兵衛は戦国時代に活躍した武将です。「黒田“官兵衛”」の名が有名ですが、実際の名前は「黒田孝高(くろだよしたか)」もしくは晩年の出家後に名乗った「如水(じょすい)」とされていて、「官兵衛」という名前はあくまでも通称であるようです。
祖父の代より播磨の戦国大名に仕えていましたが、早くから織田信長の強さを見抜き、信長の家臣であった豊臣秀吉のもとで軍師として働くようになります。秀吉の中国征伐では、有岡城の戦いで荒木村重に捕まり、地下牢に一年以上閉じ込められました。
中国地方の有力な戦国大名である毛利氏と戦っている最中、本能寺の変で信長死去の知らせを受けた官兵衛は、秀吉が天下人になるチャンスだとして驚くべきスピードで秀吉軍を上京させ、信長の敵である明智光秀を討ち果たします。
その後も秀吉が天下を統一するまで支え続け、1587年には豊前中津(現在の大分県中津市)を与えられました。しかし徐々に秀吉との関係がうまくいかなくなります。秀吉亡き後は徳川家康が天下を握る可能性も考え、関ヶ原の戦いでは息子・長政を東軍に味方させつつも、自分は九州を制圧しようと戦いを繰り広げました。
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関ヶ原の戦いでの長政の活躍が認められ、黒田家は筑前国(福岡)へ移ります。1604年、官兵衛は59歳で息を引き取りました。熱心なキリスト教信者であったので、葬儀は宣教師の見守る中、キリスト教式で行われましたが、キリスト教に否定的な江戸幕府の手前、仏式でも行われました。
黒田官兵衛の初陣は?
元々武芸よりも和歌や連歌を好んでいた官兵衛は、14歳の頃に母を亡くして以降、悲しみに暮れ、1年ほど引きこもって和歌や連歌に没頭してしまいます。しかし、近隣の僧から「そのように悲しみに暮れられることを、母君はお望みでしょうか?」と諭されたことで一念発起。武芸の鍛錬を積み、文武両道の俊才として、小寺勢力の中でも名高い若者として成長していきます。
そんな官兵衛の初陣は、1562年に起こった浦上宗景(うらがみむねかげ)との戦いでした。
当時の官兵衛は17歳。10代前半での初陣が多い時代だったため、少々遅い初陣でしたが、官兵衛は父と共に出陣し、見事に勝利を収めています。
また、初陣の前年である1561年には、そのよく気が付く性格を高く評価され、小寺政職の近習(きんじゅ、今でいう側近)として取り立てられています。また、この頃から彼は自身のことを「官兵衛」の通称を用いて名乗るようになったとされています。
黒田官兵衛の主君は?
官兵衛の主君と言えば、やはり有名なのは織田信長と豊臣秀吉ですが、実は官兵衛と彼らの出会いは、敵対関係からだったというのはご存知でしょうか?
1569年、前年に足利義昭が織田信長の協力を得て将軍として立ち、その後押しを得た織田信長が、天下に広く名を知らしめた時代。当時、群雄割拠で混沌とした状態だった播磨を平定すべく、信長は2万もの軍勢を差し向けます。そして、その2万の軍勢を指揮していたのが、後の官兵衛の主君である木下秀吉でした。
当然、官兵衛の治める姫路城も戦渦に巻き込まれ、敵軍である織田勢力の一つ、赤松政秀(あかまつまさひで)の兵士3000人に対して、自軍は僅か300人という未曽有の危機に追い込まれてしまいます。
こういう時に頼れるのは、主家である小寺家や、同盟相手である浦上家なのですが、小寺家の城は織田勢力に攻められ、浦上家は有力な家臣でもあった宇喜田直家(うきたなおいえ)に離反されるなど、とても官兵衛を救援できる状況ではありません。
絶体絶命の状況の中、ここで官兵衛の軍師としての才が目覚めます。官兵衛は僅かな兵を率い、奇襲や夜襲を行って抵抗。播磨の反信長勢力、三木通秋(みきみちあき)の援軍にも助けられ、多くの犠牲を払いながらも、見事赤松家の勢力を退けることに成功します。
そしてその大戦から数年後の1575年。官兵衛は主君である小寺政職に、信長への臣従を進言。政職もこれを了承し、官兵衛を使者として送り出します。
送り出された官兵衛は、秀吉の取り次ぎによって信長と謁見。官兵衛の知略を大いに気に入った信長は、名刀として名高い「へし切長谷部」を官兵衛に譲渡。更に播磨攻略の指揮官である秀吉の補佐役として、謁見したばかりの官兵衛を指名したという逸話も残されています。
こうして織田の家臣であり、秀吉の腹心となった官兵衛。信長と秀吉は官兵衛の類稀な頭脳をたいそう重用し、それに伴って、軍師・黒田官兵衛の名は、みるみるうちに天下に知らしめられることとなるのです。
秀吉も羨む優秀な家臣「黒田八虎」
黒田家の躍進の背景として、官兵衛自身が有能な人物であっただけではなく、官兵衛を支えた優秀な家臣団の存在も忘れてはいけません。「黒田二十四騎」とも言われる官兵衛が育て上げた侍大将の中で、その中心的な存在であったのが「黒田八虎」と呼ばれる股肱の家臣たちです。
8人のうち、5人はいわば身内とも言えます。黒田兵庫助利高、黒田修理亮利則、黒田惣右衛門直之は官兵衛の弟でした。黒田三左衛門一成は官兵衛の養子です。大坂の陣での活躍が知られる後藤又兵衛基次は、幼い頃に官兵衛に預けられて養育され、「黒田八虎」の一人となりました。
そして官兵衛に欠かせない家老であったのが以下の3人。栗山善助利安、井上九郎右衛門之房、母里太兵衛友信です。あまりにも優秀な彼らを、豊臣秀吉が直参に望んだものの、官兵衛が断ったという話もあります。
未来が見えていた?!官兵衛の先見の明
豊臣秀吉の死後に起きた関ヶ原の戦いでは、黒田家は徳川家康率いる東軍に味方しています。官兵衛と石田三成との確執があったとはいえ、豊臣家は官兵衛が長年支えた主家です。しかし官兵衛は息子の長政に家康の養女を正室として迎え入れ、東軍に味方するのです。
これにより、黒田家は江戸時代も存続することになりました。関ヶ原の戦いは、当時はどちらが勝つかわからないといわれていましたが、官兵衛は先を見通す目があったために、黒田家を後世に遺すことができたのです。
うんこ