石原莞爾とはどんな人?生涯・年表まとめ【天才的戦略家の思想や最終戦争論、子孫や死因についても紹介】

石原莞爾とは明治から昭和初期にかけての陸軍軍人・軍事思想家で、満州事変を起こした人物です。

戦前に石原莞爾ひきいる関東軍は、中国北にある「満州」に駐留していました。関東軍は1931年に満州にある鉄道の線路を爆殺させます。これを中国の仕業に仕立て上げて、関東軍は満州一帯を占拠しました。いわゆる満州事変です。

満州事変は太平洋戦争が終わる1945年まで続く、いわゆる「十五年戦争」の始まりとされています。石原は満州事変の首謀者であることから「戦犯」の筆頭とされていました。

石原莞爾

一方で石原は1937年に起きた日中戦争では「不拡大方針」を唱えています。石原は戦争で領土を広げようとする陸軍の中で孤立し、左遷されるのです。満州事変を起こしたのに、なぜ日中戦争や太平洋戦争には反対したのでしょうか。満州事変は石原がいずれ起こると考えた「アメリカとの最終戦争」に備えるものだったのです。

石原は「世界最終戦論」という本を出版するなど、軍事思想家としての一面もあります。強烈なエピソードに、スケールの大きな考え方もあり、石原には未だに多くの信者がいます。戦前の日本を語る上で、石原は欠かせない存在です。

今回は石原のスケールの大きさに魅了された筆者が、「帝国陸軍の異端児」と呼ばれた石原莞爾の生涯について解説していきます。

この記事を書いた人

Webライター

吉本 大輝

Webライター、吉本大輝(よしもとだいき)。幕末の日本を描いた名作「風雲児たち」に夢中になり、日本史全般へ興味を持つ。日本史の研究歴は16年で、これまで80本以上の歴史にまつわる記事を執筆。現在は本業や育児の傍ら、週2冊のペースで歴史の本を読みつつ、歴史メディアのライターや歴史系YouTubeの構成者として活動中。

石原莞爾とはどんな人物か

名前石原莞爾
誕生日1889年1月18日
没日1949年8月15日
生地山形県西田川郡(現・鶴岡市)
没地西山農場(現・山形県遊佐町)
配偶者前妻・清水泰子、後妻・国府テイ子
埋葬場所山形県遊佐町

石原莞爾の生涯をハイライト

陸大を卒業する時の石原莞爾(石原は前列中央)
  • 1889年 0歳 石原莞爾誕生
  • 1907年 19歳 陸軍士官学校に入校
  • 1915年 27歳 陸軍大学校に入校
  • 1920年 32歳 日蓮主義をかかげる国柱会の会員になる
  • 1928年 39歳 関東軍に赴任する
  • 1931年 42歳 満州事変を引き起こす
  • 1936年 47歳 二・二六事件を鎮圧する
  • 1937年 48歳 日中戦争が勃発する
  • 1938年 49歳 関東軍に再赴任するが東條英機と対立する
  • 1940年 51歳 世界最終戦論を出版
  • 1941年 52歳 立命館の国防学研究所所長に就任
  • 1944年 55歳 東條英機暗殺未遂事件に関与
  • 1945年 56歳 終戦
  • 1946年 57歳 東京裁判に出廷
  • 1949年 60歳 死去

軍事の天才!満州事変を成功させる

濃い赤色の部分が満州地方

石原は1931年9月〜32年2月に満州事変を成功させます。当時の石原は中国北の「満州」に駐留する関東軍に属していました。9月に関東軍は柳条湖付近の線路上で爆発を起こします(柳条湖事件)。

関東軍はこれを中国軍の仕業とし、「満州にいる日本人ん守るために満州の占領」を訴えます。しかし日本政府は爆殺を関東軍の仕業と見抜き、増援を認めませんでした。

結果的に朝鮮の軍を指揮する立場にいた林銑十郎が、独断で満州の占拠を通達。満州は日本軍により占領され、満州事変は成功しました。1932年2月に関東軍は「清の最後の皇帝・溥儀」を擁立して満州国を建しています。

満州の占領のために瀋陽に入る日本軍

満州事変は石原の仲間たちが何年も前から構想を練っていました。当時の満州一帯の日本軍は、点在した中国軍よりもずっと少なかったのです。しかし石原は少ない軍勢で占領に成功し、軍事の天才と呼ぶにふさわしい作戦でした。

ところが、満州国の建国は関東軍の「領土拡大の野心」を増長させます。少ない軍勢で満州を占領した事で、「領土侵略は簡単」と関東軍は考えたのでした。満州事変は日中戦争や太太平洋戦争を引き起こすきっかけになったのです。

目上に厳しく目下に優しい性格?東條英機と対立

石原がかつて所属した歩兵第六十五連隊

石原は後輩や信奉者には、細かいところまで気の利く優しい人でした。

以下のエピソードが知られています。

  • 部下のために食事の味の向上をはかる。浴場に洗浄装置を取り付ける。
  • 戦地では暗殺を防止するために野糞を部下に勧める。部下が恥ずかしがらないよう、率先して野糞をする
  • 辻政信など、多くの信奉者がいた。

反対に自分が正しいと思った事は上司でも主張を貫きました。宴会で上司から酒を勧められても、下戸だった石原は「呑まぬ」と拒否。当時は上司の命令が絶対の縦社会です。それでも石原は毅然とした態度でした。

また二・二六事件という若手将校のクーデター未遂事件が起きた時、石原は首謀者達を煽った荒木貞夫大将に会います。その時に石原は上司の荒木に「お前みたいなばかな大将がいるからこんなことになるんだ」と怒鳴りつけています。

犬猿の仲だった東條英機

石原が陸軍で左遷したのは、やはり性格が原因でした。日中戦争が泥沼化した頃に石原は再び関東軍に赴任します。その時の上司は「太平洋戦争の時の総理大臣」だった東條英機です。

石原は自分と方針が異なる東條を激しく罵倒します。「憲兵隊しか使えない女々しい奴」「東條上等兵」と呼ぶなど、徹底的に対立しています。やがて石原は東條の根回しで左遷されました。

石原は天才すぎるがゆえに、上司と歩調を合わせる事ができなかったのです。

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