「新撰組で有名な沖田総司ってどんな人?」
「剣の達人と言われているけど実際はどうったの?」
「本当にイケメンだったのかな?」
沖田総司は幕末に活躍した、「新撰組」に所属した人物です。新撰組では一番隊組長という重要な任務を担う部隊の組長を努め、天才的な剣技をもっていたとされる人物でした。
新選組は大河ドラマを筆頭に多くの作品に取り上げられる題材であり、その中でも沖田総司は1,2の人気を争う人物です。大体の沖田総司像は「短命のイケメン剣士」というイメージが定着しているようです。しかし実際の沖田総司は、あまり詳しい資料が残っていない謎の多い人物でもあります。
この記事ではそんな沖田総司の、生涯や剣の腕前、死因やイケメンだったのかまで、多方面から沖田総司という人物に迫っていきます。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
沖田総司とはどんな人物か
名前 | 沖田総司 |
---|---|
誕生日 | 1842年? |
没日 | 1868年7月19日 |
生地 | 江戸(東京都) |
没地 | 東京・千駄ヶ谷 |
配偶者 | なし(諸説あり) |
埋葬場所 | 専称寺 |
所属部隊 | 新撰組 |
役職 | 一番隊組長 |
沖田総司の生涯をハイライト
沖田総司の人生を簡単にダイジェストします。
- 1842年:江戸の白川藩屋敷で生まれる(1844年説もあり)
- 1851年:天然理心流の道場で内弟子となる
- 1856年頃:試衛館塾頭を務める
- 1863年:「浪士組」に入り一番隊組長となる
- 1864年:池田屋事件に踏み込む
- 1865年:山南敬助の介錯をする
- 同年:この頃肺結核の症状が深刻化する
- 1867年:療養中御陵衛士に襲撃される
- 1868年:甲陽鎮撫隊に参加する
- 同年:千駄ヶ谷で死去
【年表付】幕末とはどんな時代だった?歴史の流れ・出来事・人物まとめ
新選組の一番隊組長だった
沖田総司は新撰組の一番隊組長でした。一番隊は剣豪が揃う新撰組でも特に精鋭が揃った部隊といわれており、重要な任務を任される部隊でした。その他の肩書は「副長助勤筆頭」「小銃頭」「剣撃師範」という立場でもあったといいます。沖田総司が新撰組で実際活動したといわれている事件は、
- 浪士組・殿内義雄の暗殺
- 芹沢鴨・平山五郎を内部抗争で暗殺
- 池田屋事件(尊王攘夷派の粛清)
- 禁門の変(長州藩士を鎮圧)
- 山南敬助の介錯を務める
などです。上記は明らかに沖田が出動したとわかるものですので、実際はもっと多く活躍したと考えられます。沖田の仕事は「暗殺」という汚れ仕事でした。沖田が初めて暗殺に手を染めたのが同じ浪士組の殿内義雄だったといわれています。
当時新撰組は局長となる芹沢鴨と、同じく局長になる近藤勇と二つの派閥がありました。しかし殿内が新たに派閥を作ろうと仲間を集め始めます。その事態を歓迎しない芹沢と近藤は手を組んで殿内を暗殺しました。実行犯は近藤と沖田で、直接手を下したのは沖田といわれています。
手口は仲間を探すために旅に出ようとする殿内に、近藤たちが酒を沢山飲ませ京都四条大橋で闇討ちし殺害しています。刀は旅のために袋に入れたままで、抵抗が出来なかったと考えられています。これが記録を見る限りは最初の沖田の暗殺です。
沖田総司のことを詳しく知れてよかったです。あと、ひとつ疑問なんですけど、新せん組の、「せん」は、「選」か「撰」どっちですか。❓