新撰組とは?成り立ちや活動内容、主要メンバーを解説【組織図付き】

「新撰組ってどんな組織だったの?何をしていたの?」
「どんな人が所属していたのか知りたい!」
「新撰組って最後どうなったんだろう?」

新撰組は江戸末期に京都で、尊王攘夷運動の取り締まりをした部隊です。剣の達人が多く在籍し、圧倒的な強さで尊王攘夷運動する者や、乱暴な浪士を取り締まるために組織されました。隊員は局長・近藤勇、副局長・土方歳三をはじめ、剣の達人として沖田総司や斉藤一などが有名といえるでしょう。

新撰組の旗印
出典:Wikipedia

歴史ファンの中でも特に人気の高い「新撰組」。しかし隊員のことは知っていても、実際どういった組織かや詳しい活動内容はあまり知られていないのが現状です。

この記事では「新撰組」という組織に焦点をおいて、新撰組の活動や組織内容、関わった事件や隊員など幅広く紹介します。

この記事を書いた人

フリーランスライター

高田 里美

フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。

新撰組とはどんな部隊だった?

新撰組祭りで新撰組に扮する人たち
出典:行方商工会

まずそもそも新撰組とはどういった部隊なのか?結成の経緯から規則や服装など、部隊の特性を見ていきます。

新撰組が結成された経緯

京は過激思想の集まりなどもあり非常に物騒だった

新撰組は主に尊王攘夷派の志士を取り締まり、幕府を守るために結成された浪士隊です。最盛期には200人を超える隊員が在籍し、局長である近藤勇や副局長の土方が隊員たちをまとめ、京の警備を行っていました。

幕末という時代は諸外国に開国するか、外国人を排除すべきかの情勢が不安定な時代でした。諸外国に対して弱気な幕府に不満を抱き幕府を倒そうとする“倒幕思想”と、外国人を国内から排除したい「攘夷」思想を持つ脱藩浪士が多くいたのです。

清河八郎、明治維新の火付け役となったが幕府の刺客に暗殺された
出典:Wikipedia

京の治安は悪くなり、従来京の治安を守る「京都所司代」や「町奉行」だけでは対応が出来ない状態でした。そのために将軍・徳川家茂の上洛に向けて将軍警護の求人を江戸で募集。200名ほど集まり京へ向かっています。しかし到着してみると企画した出羽庄内出身の浪士・清河八郎が実は将軍警護ではなく、攘夷が目的であるとカミングアウト。

そのため浪士取締役で協議し、清河の陰謀を阻止するために江戸へ戻る者、そのまま求人通り将軍警護のために残留するものと二手に別れました。この時近藤・土方を中心とした試衛館派と芹川鴨を中心とする水戸派は京都に残り、京都残留組は「壬生浪士隊」と名づけられ発足したのです。

壬生浪士隊駐屯地「八木邸」跡
出典:Wikipedia

当初の隊員数は24名で京都壬生村の「八木邸」や「前川邸」などを駐屯地とし、隊員募集を開始。その結果36名に増え、京都守護職の松平容保から、主に不逞浪士の市中警備を任されました。

そして壬生浪士隊は大阪相撲の力士と乱闘したり、京都生糸屋を放火したりと問題行動を起こすものの、尊王攘夷派を朝廷から排除する八月十八日の政変の警護に出動。この時に働きを評価され、「新撰組」という名前を拝命しています。こうして「新撰組」は始動しました。

入隊条件と訓練方法は?

意志さえあれば入隊可能だった

江戸時代の身分制度、生まれで仕事は決められていた
出典:ガールズちゃんねる

新撰組の入隊条件は、年齢や身分は関係なく「尽忠報国」の思想があれば誰でも入隊可能でした。実技試験もなく要は「健康であれば」誰でも入隊可能だったのです。身分制度が厳しかった時代に画期的であると同時に、しばしば身分の上下関係による内紛の種になった面も否めません。そして武士でなくても、武士のようになれると腕に覚えがある者が「一旗揚げたくて」入隊した人も多かったそうです。

ただし入隊してすぐは「仮同士」という使用期間があり、先輩隊士が夜に押し込むなどして度胸があるかどうかを試し、臆病な振る舞いをした者は除隊させられたといいます。

新撰組も非常に組織化された隊だったらしい

また既婚者は妻子を壬生の駐屯から10里(40km以上)離れたところに住まわせることが条件で下。これは新撰組が合宿制をとっていることと、妻子のために命を惜しむことを避けた為と考えられています。ただし幹部になると京に家を持ち、妻子や妾を迎える事が許されていたといいます。

多岐に渡っていた訓練方法

木刀での稽古の様子
出典:Wikipedia

新撰組の訓練は、撃剣・柔術・砲術・槍術・文学に師範を設けて行われたそうです。剣術は天然理心流や神道無念流、北辰一刀流などまちまちだったので、流派が違うと形稽古が出来ないために竹刀打ち込み稽古に限られていたといいます。

稽古はかなり厳しかったらしく、打倒されて動けなくなっている人をよく見かけたといいます。近藤や芹川は実際参加せずに見ている事が多かったそうですが、土方は胴着を着て「軽い、軽い」といって汗水流して叱っていたそうです。

西本願寺、広いとはいえここで訓練していたことには驚いてしまう
出典:Wikipedia

また新撰組というと、剣技や槍術などに突出したイメージがありますが、実際は幕府陸軍に習ってフランス式軍事訓練も行っていました。西本願寺の境内で大砲や小銃の訓練を行い、鉄砲の音がうるさいと会津藩に寺から苦情をいわれたりしています。その後壬生寺に訓練場所が移されるものの、参詣人を妨げたり大砲の音で寺が破損したりとトラブル続きだったようです。

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