足利尊氏とはどんな人?生涯・年表まとめ【功績や家系図、肖像画の謎も解説】

足利尊氏は室町幕府の初代・征夷大将軍です。後醍醐天皇や鎌倉幕府の生き残りなど、さまざまな勢力との戦いに生涯の大部分を費やし室町幕府を立ち上げました。

足利尊氏
出典:Wikipedia

とはいえ幕府を開いた人物として有名な源頼朝や徳川家康と比べ、尊氏の人柄や功績を知らない方も多いはず。そこで今回は足利尊氏について解説すると共に、複雑な鎌倉末期〜室町初期の歴史的背景についても解説していきます。

この記事を書いた人

Webライター

吉本 大輝

Webライター、吉本大輝(よしもとだいき)。幕末の日本を描いた名作「風雲児たち」に夢中になり、日本史全般へ興味を持つ。日本史の研究歴は16年で、これまで80本以上の歴史にまつわる記事を執筆。現在は本業や育児の傍ら、週2冊のペースで歴史の本を読みつつ、歴史メディアのライターや歴史系YouTubeの構成者として活動中。

足利尊氏とはどんな人物か

名前足利尊氏(元々は足利高氏)
誕生日嘉元3年(1305年)
没日延文3年(1358年)4月30日
生地不明(相模国鎌倉が有力)
没地京都二条万里小路第
(京都市下京区)
配偶者正室・赤橋登子
側室・加古基氏の娘、越前局等
埋葬場所等持院(京都市北区)

足利尊氏の生涯をハイライト

足利氏の家紋
出典:Wikipedia
  • 1305年 0歳 足利尊氏誕生
  • 1319年 15歳 元服
  • 1331年 27歳 家督を継ぐ 元弘の乱に参加
  • 1333年 29歳 後醍醐天皇と鎌倉幕府を崩壊させる
  • 1335年 31歳 中先代の乱
  • 1336年 32歳 室町幕府を立ち上げる
  • 1339年 35歳 後醍醐天皇の崩御
  • 1350年 46歳 観応の擾乱
  • 1352年 48歳 弟・直義死去
  • 1358年 54歳 足利尊氏死去

聞きなれない単語がたくさんありますので、後ほど解説していきますね。

後醍醐天皇と対立して室町幕府を開く

足利将軍室町第址碑
出典:Wikipedia

尊氏が室町幕府を開いたのは建武2年(1336年)11月です。鎌倉幕府は正慶2年(1333年)に崩壊しますが、多大な貢献をしたのが尊氏でした。後醍醐天皇は「建武の新政」という新政治を始めるものの、武士を軽んじる政策から武士達の不満は高まります。

後に鎌倉幕府の執権・北条高時の遺児である北条時行が「中先代の乱」を起こし、鎌倉の奪回に成功。尊氏の弟・直義が時行に敗北したと知り、京にいた尊氏は「征夷大将軍」の座を後醍醐天皇からもらい、鎌倉に加勢に行く事を考えました。

しかし後醍醐天皇は尊氏が鎌倉で勢力を拡大する事を恐れてこれを拒否。尊氏は後醍醐天皇に反旗を翻して鎌倉に向かい、中先代の乱は尊氏側の勝利に終わりました。結果的に直義や側近の意向もあり、尊氏は鎌倉に居座ります。

後醍醐天皇
出典:Wikipedia

後醍醐天皇は尊氏の行動に立腹し、建武3年(1336年)1月から11月にかけて尊氏陣営と後醍醐天皇陣営による「建武の乱」が勃発。長い戦いの末に尊氏は後醍醐天皇に勝利し、室町幕府を発足させたのです。

尊氏は後醍醐天皇に疎まれた光厳上皇の弟・光明天皇を即位させます。一方で後醍醐天皇は新たな朝廷を開きました。室町幕府発足を経て、京にいる「北朝」と吉野の「南朝」に朝廷が分裂する南北朝時代が到来するのです。

日本史に残る兄弟喧嘩?観応の擾乱を引き起こす

観応の擾乱の一戦・薩埵峠の戦いが行われた浜石岳
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尊氏はカリスマ性から多くの武士に好かれたものの、政治力は皆無。室町幕府は軍事を担当する尊氏と、政務を担当する弟の直義による二頭政治で行われます。2人は同母兄弟で年も1つしか離れておらず、元々は仲の良い兄弟だったのです。

2人の仲が悪くなるのは1350年頃に発生した「観応の擾乱」でした。元々は尊氏の執事(将軍の秘書官的な役職)の高師直と直義の対立がきっかけでした。当初は幕府の勢力争いに過ぎなかったものの、直義が南朝と手を組んだ事で流れは変わります。

更に直義は尊氏の子ども・直冬を養子にしていたものの、尊氏は直冬を実子と認めませんでした。観応の擾乱は「高師直vs足利直義」という争いに「北朝vs南朝」や「義詮(尊氏の嫡男)vs直冬(直義の養子)」等の要素が加わります。

結果的に観応の擾乱の規模は大きくなりました。1351年には高師直が命を落とすものの、尊氏は師直の代わりに直義と戦います。後に直義は尊氏に敗北し、謎の死を遂げます。尊氏はその後も直冬陣営と戦いを続け、室町幕府は早くも弱体化したのです。

勇敢な性格だが、躁うつ気質だった?

尊氏を高く評価した夢窓疎石
出典:Wikipedia

臨済宗の僧侶・夢窓疎石は尊氏の性格を「心が強く、合戦でも死を恐れる様子がない」「慈悲深く、他人を恨む事をしない」「心が広く」と評しています。実際に尊氏は多くの人達から慕われていました。

尊氏は懐が大きく、それを裏告げるエピソードはたくさんあります。当時は8月1日に贈り物を贈答する習慣があり、尊氏の元には様々な贈り物が届きます。尊氏はそれらを全て人に渡した為、何一つ手元に残りませんでした。

一方で突然「出家する」と述べる等、情緒不安定な行動や発言も目立ちます。鎌倉幕府に反旗を翻した他、後醍醐天皇に足利直義に対する一貫性のない対応も、尊氏を語る上では避けられません。一説では尊氏は躁鬱だったという説があります。

万人恐怖と呼ばれた6代将軍・足利義教(尊氏の曾孫にあたる)
出典:Wikipedia

躁鬱説を提唱したのは佐藤進一という歴史学者です。躁鬱は現在では「双極性障害」と呼びますね。佐藤は尊氏の父が発狂した事がある点、6代将軍・義教の熾烈な性格等から、足利家に遺伝的な形質があると仮定したのです。

ただ近年には歴史研究者の呉座勇一が佐藤の説を否定しています。そして精神医学の専門家でもない者が、安易に疾患を決めつけるのは危険とも述べました。尊氏の行動や性格については議論が続いているのです。

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