「新撰組の永倉新八ってどんな人?」
「新撰組で最強って本当?」
永倉新八は幕末の武士で、新撰組の組長だった人物です。危険な任務も多く、沢山の事件に関わり、剣の腕も新撰組で最強と言われたほどだったと言います。また、幕末を生き延び新撰組の貴重な証言を残している人物でもあります。
しかし同じ新撰組でも、近藤勇や土方歳三と比べるとあまり知られていないのが現状です。この記事では数多い新撰組の隊員の中でも最強を争っていたという永倉新八について、長年新撰組が好きな筆者が逸話や愛刀・登場作品など様々な視点から迫っていきます。
この記事を書いた人
フリーランスライター
フリーランスライター、高田里美(たかださとみ)。大学は日本語・日本文学科を専攻。同時にドイツ史に興味を持ち、語学学校に通いながら研究に励む。ドイツ史研究歴は約20年で、過去に読んだヨーロッパ史の専門書は100冊以上。日本語教師、会社員を経て結婚し、現在は歴史研究を続けながらWebライターとして活躍中。
永倉新八とはどんな人物か
名前 | 永倉新八(長倉新八・杉村義衛) |
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誕生日 | 1839年5月23日 |
没日 | 1915年1月5日 |
生地 | 江戸(東京) |
没地 | 北海道小樽市 |
配偶者 | 小常・杉村きね |
埋葬場所 | 小樽市中央墓地 札幌市里塚霊園 寿徳寺境内墓地 |
所属 | 壬生浪士隊・新撰組・靖兵隊 |
新撰組役職 | 二番隊組長・撃剣師範 |
永倉新八の生涯をハイライト
- 1839年:松原藩上屋敷で士族・長倉勘次次男として生まれる
- 1846年:神道無念流剣術道場「撃剣館」に入門
- 1856年:道場の本目録となり元服し「新八」と称する
- 同年:剣の修行のため脱藩・永倉新八と称する
- 1863年頃:市川宇八郎と剣術修行の旅に出る
- 同年:近藤勇の天然理念流「試衛館」の食客となる
- 同年:新撰組に入隊、二番隊組長となる
- 1868年:鳥羽・伏見の戦いに参加
- 同年:甲州沼野の戦いで敗戦、近藤と離れ靖兵隊を結成
- 1871年:杉村きねと結婚・婿養子となり杉村姓になる
- 1873年:杉村治備と改名
- 1882年:樺戸集治監で剣術を教える
- 1915年:骨膜炎と敗血症により死去、享年77歳
新瀬組二番隊組長だった
永倉新八は新撰組で二番隊の組長と撃剣師範を務めていました。新撰組は十番まで隊があり、一番隊の組長は近藤の一番弟子の沖田総司だったので、神道無念流であった永倉が二番隊を任されていたのは、やはり剣の腕を見込まれての人選だったといえるでしょう。実際多くの事件で活躍しており代表的なものでは、
- 池田屋事件
- 油小路事件
- 鳥羽・伏見の戦い
などがあります。永倉は新撰組が一躍有名となった池田屋事件では、左手親指に深い傷を負いながらも、刀が折れるほど奮闘し、防具もぼろぼろとなったといいます。
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永倉新八の剣の腕前と愛刀は?
剣好きで色々な場所で腕を磨いていた
永倉新八は、剣好きが高じて脱藩するほどの剣術好きでした。腕前も確かで幼いころに入門した神道無念流では15歳で紙切り、18歳で本目録となっています。頭角を表しながらも、剣の腕を磨くために旅に出た先で、心形刀流剣術の坪内主馬に見込まれて道場師範代を務めています。
18歳の若さで師範代を務めていたことからも、永倉が剣の使い手であったことがわかります。事実、その後近藤勇たちと出会い、試衛館の食客となっていた時に新撰組の求人に応募。近藤が局長となると、新撰組の二番隊組長となり撃剣師範という隊員に剣を教える立場にもなっています。
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永倉新八の愛刀は?
永倉新八の愛刀は「播州住手柄山氏繁」です。池田屋事件時に帽子が折れたと伝わっています。手柄山という名前の縁起が良いと人気のある剣だったということです。現存はしていません。