【24年11月最新】日本史上最悪で一番恐ろしい事件ランキングTOP30

「日本で起きた最悪で一番恐ろしい事件って何だろう?」
「事件の詳細を詳しく知りたい!」

今回は、そんな疑問を持つ人に向け、戦後以降の日本で起きた恐ろしい事件をランキング形式でまとめました。被害者の数や犯人のその後についても解説します。

この記事を書いた人

Webライター

吉本 大輝

Webライター、吉本大輝(よしもとだいき)。幕末の日本を描いた名作「風雲児たち」に夢中になり、日本史全般へ興味を持つ。日本史の研究歴は16年で、これまで80本以上の歴史にまつわる記事を執筆。現在は本業や育児の傍ら、週2冊のペースで歴史の本を読みつつ、歴史メディアのライターや歴史系YouTubeの構成者として活動中。

30位:寿産院事件-1944年~1948年

寿産院事件で被害に遭った母子の様子
出典:Wikipedia

1948年1月12日に発覚した乳幼児の大量殺人事件です。新宿にあった寿産院では乳幼児の凍死、餓死が相次いでいました。ミカン箱に入った乳幼児の遺体を運ぶ葬儀屋に事情聴取をした事で事件が発覚。正式な犠牲者は不明なものの、85人から169人の間とされます。

寿産院を経営していたのは産婆経験のある石川ミユキ(当時51歳)と、夫の猛(当時53歳)です。彼らは1944年から1948年の間に新聞広告等で多く乳幼児を集めました。それは親から貰う養育費や、都から支給される補助金や配給品の着服や横流しをする為です。

護送される被疑者
出典:Wikipedia

太平洋戦争期や戦後直後の混乱や、ベビーブームの中で子育てが困難な親はたくさんいました。石川夫妻はそんな親に救いを差し伸べるフリをしたのです。石川夫妻の殺人罪は証拠不十分として無罪。結果的にミユキは懲役4年、猛は懲役2年と軽いものでした。

現在、寿産院のあった場所は空地になっています。乳幼児の遺体は現場近くの宗円寺に土葬され、後に無縁塔に移され合葬されました。子供たちの未来を奪った決して許される事ではありません。

29位:帝銀事件-1948年

事件直後の帝国銀行・椎名町支店
出典:Wikipedia

1948年1月26日、豊島区の帝国銀行・椎名町支店で発生した銀行強盗殺人事件です。閉店直後の支店に「とある男」が現れ、「近くの家で集団赤痢が発生したので、予防薬を飲んで欲しい」と嘘を言い、行員と用務員の一家に青酸化合物を飲ませました。

16人が青酸化合物を飲み、12人が死亡。犯人は現金と小切手を盗み逃走しました。捜査本部は捜査線上に浮上した「平沢貞通」を8月21日に逮捕します。平沢は激しい拷問の末、1ヶ月後に自供。別件の類似事件も合わせて逮捕されたのです。

平沢貞通は冤罪説も根強い
出典:Wikipedia

平沢は過去に詐欺事件を繰り返しており、出所不明の大金を持っている等、怪しい点も多々ありました。ただ決め手の証拠は「平沢の自白」のみで、平沢は公判では無罪を主張。1955年に死刑が確定するものの、刑の執行がされぬまま1987年に獄中死しています。

「平沢が無罪だった」という説も根強く、刑が執行されなかった理由の一つとされます。取り調べでは激しい拷問が行われた事、当時日本を統治していたGHQが犯行や捜査に介入した説もあり、闇の深い事件の一つです。

仮に平沢が犯人ではなく、32年間刑死に怯えながら獄中生活を送っていたとするなら…。実に恐ろしい話です。

28位:おせんころがし事件 -1952年

事件の犯人、栗田源蔵
出典:Cherish

1951年10月10日深夜に千葉県の房総半島にある「おせんころがし」という崖で起きた事件です。犯人の栗田源蔵は、行方不明になっていた夫を探すため上総興津駅に降り立った母子4人を崖に誘い出し、長男と長女を崖から突き落としました。

粟田の目的は、母親の強姦で、母親を強姦した末に背中に背負っていた次女ごと崖から突き落としています。母子達が生きているとわかると粟田は石で殴打し、母親長男長女を撲殺。次女だけは隠れていて助かりました。

粟田は、1948年に静岡県で交際女性を2人殺害し、1951年には千葉県で主婦を絞殺した末に死姦。母子3人を殺害した2ヶ月後にも、千葉県で主婦と叔母を殺害しています。おせんころがし事件は、粟田が行った8人の殺害事件の総称でもあるのです。

粟田は、夜尿症でいじめに遭っていたものの、戦後には炭鉱夫として働く事で粗暴な荒くれ男に変貌します。一連の犯行は、夜尿症による劣等感と、粗暴な職場という相反する環境が招いたものかもしれません。粟田は、後に逮捕され1959年10月14日に死刑となりました。

27位:山岳ベース事件-1971年~1972年

「総括」で死んだ同志を埋めた現場
出典:jiji.com

1971年〜1972年にかけて「連合赤軍」が同志に行ったリンチ殺人事件です。冷戦が本格化する1960年代、日本では「新左翼」と呼ばれる過激な共産主義を主張する一派が台頭。彼らは暴力革命を推進し、「よど号ハイジャック事件」等の事件を起こしています。

1971年に新左翼により「連合赤軍」が発足すると、彼らは警察の目をかいくぐる為、群馬県の山中に「山岳ベース」というアジトを作ります。アジトでは「思想の違い」を修正する為の「総括」が行われますが、徐々に過激さを増していきました。

山岳ベース事件を起こした連合赤軍メンバーは、後に浅間山荘事件を引き起こす
出典:映画を100倍楽しむ方法

「総括」を要求されたメンバーは暴力を受け、食事を満足に与えられず、極寒の山中に放置。僅か2ヶ月で29人中12人が死亡します。内2人は連合赤軍の裏切り者として殺害されます。残されたメンバーのうち、逃走した者が「浅間山荘事件」を起こしました。

「山岳ベース事件」と「浅間山荘事件」は世間に衝撃を与え、新左翼という考えは衰退します。先鋭化する思想は時として大きな犠牲を生む事、過去に共産主義が国内に大きな影響を与えていた事を私達は忘れてはいけません。

26位:大久保清事件-1971年

事件のあった群馬県敷島公園
出典:しんれい新聞

大久保清事件は、1971年3月から5月にかけて群馬県で8人もの女性が殺害された事件の総称です。大久保清は、強姦目的で一連の犯行に及びました。手口は自家用車に乗って若い女性に声をかけ、トラブルになった女性を殺害して遺体を埋めるという残忍なものでした。

被害女性達は行方不明とされていたものの、被害者家族が捜索隊を結成し大久保が捜査線に浮上。5月13日に大久保は逮捕され、一連の犯行を自供します。1973年に死刑判決が言い渡され、1976年1月に刑は執行されます。最後まで遺族に謝罪はありませんでした。

犯人の大久保清(1935年〜1976年)
出典:オレンジログ

大久保は、両親から溺愛されて育つものの、父親は子供の前で性行為をする人物でした。大久保は、小学6年生の頃に幼女の性器に石を詰め込む暴行を加えたものの、両親はそれを否認。万引きをした時も、両親が損害を弁償して示談しています。

大久保は、事件の前に強姦事件で実刑判決を受けており、妻と離婚した事で自暴自棄になり犯行に及んだとされます。彼の行為は非道極まりないものですが、両親の教育も彼の人格形成に影響を与えたことは間違いありません。

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