渋沢栄一とは、近代の日本経済を築き、『日本資本主義の父』と称される、1840年生まれの実業家です。埼玉県の田舎の農家出身ながらも、海外への渡航経験を経て大蔵省の役人となります。
その後、大蔵省を辞め、「第一国立銀行(現在のみずほ銀行)」と呼ばれる日本で最初の銀行づくりにたずさわり、完成した後は頭取(銀行の代表者)となっています。
第一国立銀行以外にも、現在の三井住友銀行や多くの地方銀行の設立にも関わりました。それ以外にも、東京海上日動火災保険、日本製紙、東急、帝国ホテル、東京証券取引所、サッポロホールディングス、キリンホールディングスなど、生涯で470社もの企業に携わったといわれています。
そのような活躍が評価され、歴史に名を残す偉人となった渋沢栄一ですが、2024年度から「1万円札の顔」となることが発表されました。1984年に聖徳太子から福沢諭吉になって以来、40年ぶりの変更です。
貨幣経済において必要不可欠な1万円札。普段使っている我々日本人として彼の功績を知らないわけにはいきません。この記事を読んで少しでも渋沢栄一の魅力を知り、2024年度から堂々と1万円札を使っていきましょう。今回は、資本主義社会の仕組みに興味を持って調べていくうちに、渋沢栄一の偉業に頭を上がらなくなってしまった筆者がご紹介します。
この記事を書いた人
一橋大卒 歴史学専攻
Rekisiru編集部、京藤 一葉(きょうとういちよう)。一橋大学にて大学院含め6年間歴史学を研究。専攻は世界史の近代〜現代。卒業後は出版業界に就職。世界史・日本史含め多岐に渡る編集業務に従事。その後、結婚を境に地方移住し、現在はWebメディアで編集者に従事。
渋沢栄一の生涯をダイジェスト
名前 | 渋沢栄一 |
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誕生日 | 1840年3月16日 |
没日 | 1931年11月11日(享年92歳) |
生地 | 武蔵国榛沢郡血洗島村 (現埼玉県深谷市血洗島村) |
没地 | 東京都 |
埋葬場所 | 谷中霊園 (東京都台東区谷中7-5) |
職業 | 幕臣・実業家・慈善家・ 官僚・教育者 |
配偶者 | 渋沢千代 |
父 | 渋沢市郎右衛門元助 |
母 | エイ |
1840年、渋沢栄一は現在の埼玉県深谷市に生まれました。家は養蚕や米・野菜の生産から藍の葉から作られる染料の販売まで幅広く営むどちらかというと裕福な農家で、渋沢も小さな頃から仕事を手伝っていました。19歳で学問の師であった尾高惇忠の妹・千代と結婚し、22歳で江戸に出て儒学者・海保漁村のもとで学び始めます。
24歳で京都に出て一橋(徳川)慶喜の家臣となり、彼の警護に当たったり海外渡航を経験したりしました。1868年、大政奉還が起こり明治政府が樹立すると、大隈重信に経験を買われ大蔵省に入省します。4年後に退職するまで、官僚として近代日本の経済に携わりました。
34歳で大蔵省を退官すると、第一国立銀行(現在のみずほ銀行)の頭取となります。株式会社の創設・育成に力を入れ、生涯をかけ470社もの企業の創立に携わりました。
また、大学など教育機関の創設や社会事業にも関わり、日本赤十字社の設立にも注力しました。渋沢が関わった社会事業は600にのぼるといわれています。日本を豊かな国にするために、力を惜しまない人物だったのです。渋沢は1931年、92歳でその生涯を閉じました。
渋沢栄一はどんな人?
農民出身だった渋沢栄一
起業家であり「近代日本経済の父」といわれる渋沢栄一は、現在の埼玉県深谷市の農家に生まれました。大蔵省にも勤め、何百社もの企業創立に貢献していく人生を歩むにも関わらず、生まれは一般の農家です。幼いころは家業である藍玉の製造・販売・養蚕を手伝っていたといいます。
しかし彼の実家は、農家といっても当時しては比較的大きな農家でした。父親から学問を習い、7歳になると尾高惇忠という論語学者のもとへ本格的な学問を習いに行けるほどの経済状況ではあったのです。しかしそれでも、一般の農民から日本の経済を代表する人物に成りあがったのは、やはり渋沢の努力の賜物でしょう。
幼少期の渋沢も、学問をしながら父と共に信州や上州へ赴いて藍を売り歩いていたといいます。14歳の頃には独り立ちをし、単身で藍葉の仕入れに出かけるようになったといいますから、実業家としての素質がうかがえます。
過激な思想をもつ一面も
渋沢栄一は江戸時代生まれですが、尾高惇忠の思想や様々な学問を習った結果として「尊皇攘夷論」を論じるようになりました。天皇の権威が第一とし、開国を迫る外国人を排斥する尊皇攘夷論は、当時でも比較的過激な思想です。そのため渋沢の性格も激しい一面をもっていたといわれています。
ちなみにその思想から、渋沢は討幕のために「高崎城を乗っ取る」という計画を企てたこともありました。現在の群馬県にある高崎城で武器を調達し、横浜の異人館を襲撃しようとしたとのことですが、あまりに過激な考えであったために尊王攘夷論者からも非難を浴びたそうです。
渋沢の唱えた「道徳経済合一説」
渋沢栄一が活躍していた明治時代、「商売に学問は必要ない」とする考え方が一般的でした。けれども渋沢は、これからの時代の商売には学問が必要だ、会社経営を成功させるためには経営者自身が人間として守るべき規範・基準をもっていなければならないと考え、孔子の「論語」を自分の行動規範にしました。
「論語」では、自分の在り方を正し、日常生活で人と関わるときに役立つ教えが説かれています。豊かになるためには「正しい方法」をとらなければならないとされました。それは道徳的な考え方でもありますが、「正しい方法をとること」が「豊かさへの道」だと説く実学でもあります。
渋沢は、会社の利益を追求することと人としての道徳を重んじることのバランスがとれてこそ健全な社会であると考えました。そのような思想を説いたのが「道徳経済合一説」であり、渋沢の著書『論語と算盤』です。
「みんなが豊かになること」を1番に考えた
渋沢栄一は、なぜ470社もの企業を次々と設立していったのでしょうか。それは、当時必要とされていたモノやサービスを社会に提供して、日本の「国力」を高めるためです。自分がお金を儲けるだけではなく、みんなで豊かになろうとしたのが渋沢の偉大なところでした。
そのために渋沢は「論語」に裏打ちされた道徳観で資本主義経済を律しようとしたのです。著書『論語と算盤』では、「道徳に基づいた利益を追究すること」「自分よりも他人を優先し、社会の利益を1番に考えること」を論じています。「士魂商才」という言葉がありますが、武士の仁義を重んじ商売の才能に秀でた渋沢はまさにこの言葉のような人でした。
子孫も会社経営者として活躍している
渋沢栄一は女性事情に豪快であったようで、正妻である千代との子(嫡出子)の他にも何人もの子女がいました。もちろん嫡出子は渋沢一族の名誉に関わる者ですから、長女の歌子・二女の琴子はそれぞれ法学者の穂積陳重、大蔵大臣の阪谷芳郎に嫁いでいます。三女愛子は澁澤倉庫の会長や第一銀行頭取を務めた明石照男と結婚しました。
また、長男篤二は伯爵である橋本実梁の娘・敦子を妻に持ち、澁澤倉庫の会長を務めました。ちなみに彼は長男ですが、家督は継ぐことができませんでした。これには諸説ありますが、実業家というより芸術肌であったために、廃嫡としたとの説が濃厚です。
長男以外にも二男・武之助は石川島飛行機製作所の2代目社長、三男・正雄は石川島飛行機製作所初代社長、四男秀雄は東京宝塚劇場会長や東宝取締役会長を務めました。
渋沢栄一の子孫の詳しい情報や、彼らが現在何をしているかを以下の記事で解説していますので、ぜひ見てみてください。
渋沢栄一の子供や子孫・子女は?家系図から現在の活躍まで徹底調査
新一万円札の顔にも
日本の紙幣の肖像に選ばれる人物は、やはり政治や経済・教育の面で日本の発展に貢献した人物が大多数です。現在の紙幣には千円札に野口英世、五千円札は樋口一葉、一万円札は福沢諭吉の肖像が載っていることはいうまでもありませんが、2024年度から千円札は北里柴三郎、五千円札は津田梅子、一万円札は渋沢栄一の肖像となります。
「近代日本経済の父」と呼ばれるほどの渋沢栄一ですから、彼以外の人物と比べてもまったく劣ることなく、むしろ今までの肖像の中で最も日本への貢献度が高い、といっても過言ではない人物ではないでしょうか。
渋沢栄一の子供、家系図
渋沢は、一人目の妻「千代」との間に3人の子供を、二人目の妻「兼子」との間に4人の子供を作りました。
- 長女:歌子(うたこ)
- 次女:琴子(ことこ)
- 長男:篤二(あつじ)
- 次男:武之助(たけのすけ)
- 三男:正雄(まさお)
- 三女:愛子(あいこ)
- 四男:秀雄(ひでお)
渋沢栄一の子供や子孫・子女は?家系図から現在の活躍まで徹底調査
渋沢栄一の6つの功績
渋沢栄一の功績をまとめると以下のようになります。
- 功績1:実業家として470社もの企業設立に貢献
- 功績2:大学の設立や教育事業にも貢献
- 功績3:世界遺産「富岡製糸場」の設立
- 功績4:日本初の株式会社「第一国立銀行」を設立
- 功績5:東京ガスの前身「東京瓦斯会社」を設立
- 功績6:焼け野原だった銀座を日本一の繁華街に
それでは詳しく説明していきます。
功績1:実業家として470社もの企業設立に貢献
渋沢栄一の1番の功績はここにあります。既にこの記事でも何度か触れていますが、470社もの企業の設立に携わった実業家は日本を超えて世界に目を向けても彼しかいません。渋沢が近代日本経済の父と呼ばれる理由の1つです。
しかもその設立した企業が、今でも有名な企業というのもすごいところです。現在のみずほ銀行や東京海上日動火災保険、日本製紙、東急、帝国ホテル、東京証券取引所、サッポロホールディングス、キリンホールディングスなど業種もさまざまで、渋沢の経営理念が幅広い職種に通用するものだったと分かります。
渋沢栄一が設立に関わった会社・企業は、現在の様子まで以下の記事で詳しく解説しています。
渋沢栄一が作った会社・設立に関わった企業はどこ?代表的な10社とその現在を紹介
功績2:大学の設立や教育事業にも貢献
渋沢栄一は企業の設立だけでなく、大学の創設や教育事業にも大きな貢献をしています。例えば現在の一橋大学。創立当時は商法講習所と呼ばれ、実業界で活躍する人材を要請するための日本初の教育機関でした。
また、現在の日本女子大学の前身である日本女子大学校の設立にも貢献し、校長も務めました。大学の設立以外にも社会事業にも貢献し、彼が生涯で関わった教育・社会事業の数は600以上にもなるそうです。
渋沢栄一の数々の功績はこちらの記事でさらに詳しく解説しています。
渋沢栄一の功績10選!有名な偉業から隠れた実績まで紹介【一覧表付】
功績3:世界遺産「富岡製糸場」の設立
渋沢栄一は、世界遺産として知られる「富岡製糸場」の設立にも尽力しています。
建設当初から富岡製糸場の設置主任となり伊藤博文と共に建設計画を推進。渋沢は、当時高い技術力を持つヨーロッパのお雇い外国人を積極的に採用、工場設計や技術者の採用を依頼しました。
当初の目的こそ「ヨーロッパの技術を導入して生産性を高めること」でしたが、時が経つにつれ、最先端の製糸技術が富岡製糸場に結集するようになります。富岡の高い製糸技術や高品質の絹糸は世界で高く評価され、世界へ広がりました。
日本の工場でありながら、世界の絹産業の発展に貢献し世界遺産にまでなった富岡製糸場の功績は、前進的な渋沢栄一の指揮があったから成しえた快挙だったのです。
富岡製糸場とは?世界遺産登録の理由や歴史、設立目的など簡単に解説
功績4:日本初の株式会社「第一国立銀行」を設立
渋沢栄一は、1873年に日本初となる株式会社「第一国立銀行」を創設しました。今では当たり前となっている株式会社の始まりは、渋沢栄一がもたらしたのです。
国立銀行条例にもとづいて設立された第一国立銀行は、日本初の株式会社かつ日本初の国立銀行です。戦後の再建・合併を経て第一勧業銀行へ名称を変え、現在のみずほ銀行へ継承されています。また、渋沢は第一国立銀行の設立を機に増設された国立銀行の指導や支援も積極的に行い、現代日本の銀行制度の基盤をつくりました。
渋沢栄一なくして株式会社や国立銀行、みずほ銀行の成立は困難だったと思うと、第一国立銀行の設立はまさに功績そのものですよね。
功績5:東京ガスの前身「東京瓦斯会社」を設立
現代日本のライフラインとなっている東京ガスの前身は渋沢栄一によってつくられました。当時の大衆には受け入れがたかったガス灯の普及に尽力するも、赤字続きの収支や電灯の登場によりガス事業自体をたたむ窮地に追いやられてしまいます。
しかし、渋沢栄一は諦めませんでした。改善に改善を重ね事業を持ち直すと、官業だったガス事業を高値で民間へ払い下げ、民業へ移行してからも普及するまで手塩にかけてガス事業を成立させたのです。
今のガスインフラの普及は、道徳と経済の両立をモットーとした渋沢栄一が政府と民間両者の橋渡しを担い、ガス事業を成功へ導いた功績の賜物です。
功績6:焼け野原だった銀座を日本一の繁華街に
セレブが集う高級繁華街「銀座」のブランドイメージは、渋沢栄一によってつくられました。
1872年に起こった大火事(銀座大火)で焼け野原となった銀座一帯でしたが、渋沢栄一と井上馨が瞬く間に銀座の修復・改造計画を進めます。銀座の発展による経済の活発化を目的に、人やものの移動をスムーズにするため従来よりも大きな道が整備されました。
また、お雇い外国人の力を借り建築物を西洋風に。近代に見合う街並みへと改造していきました。その後新聞社が銀座へ進出したことで情報の集まる中心地へと発展を遂げ、日本最先端の土地へと生まれ変わったのです。
前進的なだけでなく、たぐいまれな行動力と影響力を持ち合わせていた渋沢栄一の一面が垣間見える功績ですね。
渋沢栄一の名言
人は全て自主独立すべきものである。自立の精神は人への思いやりと共に人生の根本を成すものである。
全て形式に流れると精神が乏しくなる。何でも日々新たにという心がけが大事である。
一人ひとりに天の使命があり、その天命を楽しんで生きることが、処世上の第一要件である。
事業には信用が第一である。世間の信用を得るには、世間を信用することだ。個人も同じである。自分が相手を疑いながら、自分を信用せよとは虫のいい話だ。
たとえその事業が微々たるものであろうと、自分の利益は少額であろうと、国家必要の事業を合理的に経営すれば、心は常に楽しんで仕事にあたることができる。
金儲けを品の悪いことのように考えるのは、根本的に間違っている。しかし儲けることに熱中しすぎると、品が悪くなるのもたしかである。金儲けにも品位を忘れぬようにしたい。
渋沢栄一の名言は、以下の記事で発言の背景まで詳しく解説しています。
なるほど