功績2「職業は「寺山修司」」
寺山修司は職業を尋ねられると「寺山修司です」と答えていました。それは、彼の生涯持ち続けた問い「私とは誰か?」に対する答えの一つであったとも思われます。
寺山は、映画・演劇・詩歌・エッセイ・小説・写真といったあらゆるジャンルを使いながら、私(=寺山修司)という存在を形而上の存在として対象化させ、さらに形而下にある寺山修司を見つめ、表現しようとしました。こうした俯瞰的なものの見方ができることこそ、寺山修司の才能の一つであったように思います。
結果的に、寺山修司は脚本家・演出家・詩人・エッセイストなど、さまざまな顔を持つことになりました。つまり、寺山修司は現在で言うところのマルチクリエイターのパイオニアであったと言えるでしょう。
寺山修司の名言
死を抱え込まない生に、どんな真剣さがあるだろう。明日死ぬとしたら、今日何をするか?その問いから出発しない限り、いかなる世界状態も生成されない。
「さかさま世界史」という1974年刊行の作品に収録されている一節です。世界中の23人の英雄について、寺山修司独自の視点から批評している、ユニークな作品です。
寺山は若い頃から大病を患い、死が身近にありました。明日が来ることが当たり前ではないと身をもって実感していたのでしょう。だからこそ彼は、生き急ぐが如く日々創作活動に打ち込んでいたように思います。
ほらほら、星が出ている。出ているけど、屋根があるから、ここからは見えない。だが、見えるものばかり信じていたら、いつかは虚無におちるだろう。
1967年6月に天井桟敷で初演した芝居「大山デブコの犯罪」の一節です。寺山修司の舞台は、視覚的に度肝を抜くような演出・舞台衣装・メイクが多く、ついついそこに目を奪われがちですが、寺山が観客に訴えたかったのはその本質であった気がします。役者が裸であろうが、それはあくまで装飾にすぎないのです。
つまり、ある意味では観客を「試す」芝居であったようにも思います。まやかしに騙されず、台詞や役者の芝居の核になっているものを見ないと、虚無になってしまうということなのかもしれません。
寺山修司にまつわる都市伝説・武勇伝
都市伝説・武勇伝1「馬主になったほどの競馬好き」
寺山修司は大の競馬好きでした。競馬をテーマにしたエッセイなど数多くの作品を世に送り出し、「言葉の魔術師」という異名を持つ寺山の手により、競馬は文芸にまで高められたと言われています。1970年代に一世を風靡したアイドルホース・ハイセイコーを詠んだ寺山の詩は、今でもファンが多い作品です。
ふりむくと 一人の少年工が立っている 彼はハイセイコーが勝つたび うれしくて カレーライスを三杯も食べた
寺山は競馬好きが高じて船橋・森誉厩舎のユリシーズの馬主となりました。馬主になったことで「馬に親友ができたような、ふしぎな心のあたたかさがある」と評しています。
都市伝説・武勇伝2「芝居 ”ノック” でパトカーが出動?」
劇場で座席に座り、舞台の芝居を見るという固定概念を覆したのが寺山修司の市街劇です。特に1975年4月19日午後3時から20日21時までの30時間、東京の阿佐ヶ谷を中心に上演された「ノック」は、パトカーが出動して一部の上演が中止になるなど大騒ぎを引き起こした伝説の芝居でした。
観客は、地図に書かれた場所に行き、そこで突然芝居に「参加」させられます。ある人は箱に入れられ、トラックで運ばれて行き先のわからない旅へ強制連行されます。行き先は東京湾の埠頭や墓地などだったそうです。勝手に箱から出てはいけないというルールもありました。
またある人は、突然マンホールから出てきた白衣の人にマンホール内に引っ張り込まれ、包帯でぐるぐる巻にされて地上に帰され、車椅子に乗せられて拉致されました。そして大勢の人をひき連れて団地を訪れるのです。包帯を巻かれた当人はもちろんですが、突然包帯男に訪問された団地の住人もそれは怖かったことでしょう。
この内容は住民にも知らされていませんでした。そのため、家によくわからない書簡が届いたり、突然銭湯で芝居が始まることに住民が驚き、警察に通報して、取り締まって欲しいと騒ぎになったのです。