寺山修司とはどんな人?生涯・年表まとめ【短歌や名言、死因も紹介】

1967(昭和42)〜1978(昭和53)年 – 27〜42歳「演劇実験室・天井桟敷に夢中になる日々」

アングラ劇団「天井桟敷」設立

1967年、寺山は横尾忠則・東由多加・九条映子(九条今日子の芸名)らと前衛演劇グループ「天井桟敷」を設立します。一人っ子だった寺山は、大家族で過ごすことに憧れがありました。また、自分の言葉を、自分が自由に扱うことのできる劇団を作ることも寺山の希望だったようです。

横尾忠則は天井桟敷のポスターを数多く手掛けました。

募集する劇団員は、「人妻や保険外交員、変装狂、ボクサー、猫、犯罪歴者など過去不問」としていました。応募する際に「自己紹介」として、論文やエッセーのほか、指紋やヌードポートレートなどの提出が求められました。入団すると造語訓練や肉体工作、白夜討論などの課程があると書かれています。

横尾忠則が手掛けた天井桟敷のポスター

寺山修司の周りには、劇団員以外にも多くの才能溢れた人たちで賑わっていました。グラフィックデザイナーの粟津潔や宇野亜喜良に始まり、イラストレーターの和田誠や及川正道に林静一、劇作家は山田太一以外にも倉本聰など、錚々たる面々が寺山に会いにきて、また寺山の表現活動を支えていました。

粟津潔が手掛けた天井桟敷「犬神」(ドイツ公演)のポスター

天井桟敷は隔月で新作を発表していました。当時寺山が住んでいた世田谷区下馬のマンションの、1・2階で劇団員が住み込んで稽古を続け、3階は寺山夫妻のプライベートと区分けしていたようですが、公演本数が多すぎて、寺山の生活は天井桟敷に乗っ取られてしまうような状況になっていきました。

海外での公演が始まる

1968年、天井桟敷の公演は年に5本を数え、相変わらず多忙な毎日でした。その上にアメリカへ前衛劇事情を視察する旅にも出かけています。そしてドキュメンタリー映画で知られる羽仁進監督との共同脚本「初恋・地獄篇」の執筆も手がけました。放送詩劇「狼少年」では芸術祭奨励賞を受賞しています。競走馬ユリシーズの馬主になったのもこの年です。

渋谷にあった天井桟敷館の前に立つ寺山修司

混在してしまった寺山の私生活と劇団「天井桟敷」を分けるため、1969年に寺山は渋谷に天井桟敷館を作り、そこを劇場・劇団員の宿舎・楽屋・事務所にしました。この頃から寺山は九條今日子と別居するようになります。1971年に離婚してしまいますが、その後も九條は寺山の創作をバックアップし続けました。

「毛皮のマリー」は初演で主演を務めた美輪明宏によって今も再演が続けられています。

天井桟敷は国内での新作公演のほか、ドイツ国際演劇祭での上演も行われました。ドイツ人俳優を起用した「毛皮のマリー」などの公演演出も担当しました。寺山はイスラエルに演劇事情の視察にも行っています。また、寺山が作詞を手掛けたカルメン・マキの唄「時には母のない子のように」が大ヒットします。

寺山は機会があるとネルソン・オルグレンを訪ねて話をしていました。

また、1969年はネルソン・オルグレンが来日した年でもありました。アメリカの有名な文学賞・全米図書賞を受賞しているネルソン・オルグレンは寺山に多大な影響を与えたと言われています。

そして12月、十郎率いる状況劇場の開演祝いに、寺山が葬式用の花輪を贈ったことに腹を立てたたち状況劇場のメンバーと、寺山を含めた天井桟敷の劇団員が、酔った勢いで乱闘騒ぎを起こし、留置される事件が起こりました。

「葬式の花輪」事件は新聞でも取り上げられました。

十郎と寺山修司は当時の若者の注目を集める存在であり、この事件をマスコミも騒ぎ立てましたが、互いの才能を認め合っている間柄であり、仲が悪かったどころか、唐十郎は寺山の最期を看取ることになります。

演劇の壁を打ち破る

毎年様々なことにチャレンジしている寺山ですが、特に1970年代は多くの人の度肝を抜くような作品を次々に発表します。

「あしたのジョー」の力石徹の葬儀を天井桟敷が行いました。寺山は喪主を務めています。テレビアニメ「あしたのジョー」の主題歌の作詞も寺山が担当していました。

1970年製作の実験映画「トマトケチャップ皇帝」は、子どもたちが大人を「狩って」独立国家を作るという空想を映画にしたもので、1971年にはカンヌ映画祭監督週間に招待され、物議を醸しました。ツーロン映画祭審査員特別賞を受賞しています。

演劇では、高田馬場と新宿一帯で市街劇「人力飛行機ソロモン」を上演します。市街劇とは、街全体が劇場となり、同時多発的に起きる芝居を観客が好きなように選んで観たり参加する(させられる)ものです。役者はあらゆるパターンのセリフを用意しているものの、観客が何を選ぶかによってその結末が変わります。1971年には「人力飛行機ソロモン」がオランダ、フランスで上演されました。

芝居の冒頭から黒衣が観客席を走り回り、「役者を役から解放する」「劇を劇場から解放する」目的で作られた「邪宗門」の初演は、フランスのナンシー国際演劇祭でした。その後、パリやアムステルダムでも上演され、ベオグラード国際演劇祭に招かれてユーゴスラビアでも上演され、グランプリを受賞しました。

「邪宗門」は日本では1972年に渋谷公会堂で上演されます。収容人数2000人ほどの渋谷公会堂に、3500人近い観客を動員し、乱闘やら罵声やらが飛び交い、異様な雰囲気に包まれたという伝説の芝居です。寺山が「音を止めたらただの喧嘩になってしまい、演劇でなくなる」と音楽を流し続けるよう指示を出していたと言われています。

市街劇「ノック」の一場面

市街劇「ノック」の上演は1975年のことです。「邪宗門」と違い、芝居に関係のない市民を巻き込んだことで警察が介入し、大きな騒ぎとなります。しかし寺山にとって、警察が出てくるところまでが「ノック」の芝居であったと言われています。

天井桟敷館は1976年に渋谷から元麻布に移ります。寺山が亡くなるまで、天井桟敷は元麻布で活動を続けました。

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