寺山修司とはどんな人?生涯・年表まとめ【短歌や名言、死因も紹介】

1957(昭和32)〜1966(昭和37)年 – 21〜26歳「シナリオ作家として活躍」

新婚生活時代の寺山修司

歌集を出版

1957年には第一作品集「われに五月を」、1958年には第一歌集「空には本」が発刊されます。入院生活も1958年には終わりを迎え、賭博やボクシングを楽しむ日々を送りました。

文化人との出会い

1959年には谷川俊太郎のすすめでラジオドラマを書き始めます。二作目となった「中村一郎」で民放祭大賞を受賞しました。1960年に書き上げたラジオドラマ「大人狩り」は、革命と暴力を煽動する作品として問題視されます。安保闘争の最盛期という社会的背景もその批判理由になっていたと考えられます。

「血は立ったまま眠っている」は2010年に蜷川幸雄演出で上演されました。

今では日本のミュージカル界で有名な劇団四季ですが、当初はストレートプレイを上演していました。寺山修司は劇団四季に入団しようと考えたこともあったようです。その劇団四季に寺山が関わるようになったのは、谷川俊太郎の紹介で劇団四季の代表・浅利慶太に引き合わされたことがきっかけでした。1960年、寺山の長編戯曲「血は立ったまま眠っている」が劇団四季で上演されます。

土方巽

国際的な舞踏家・土方巽との出会いも1960年です。2本の舞台演出を寺山が担当しました。映画監督篠田正浩が寺山を訪ねてきたのも1960年のことでした。寺山の詩に衝撃を受けた篠田正浩は、寺山にシナリオ執筆を依頼し、「乾いた湖」のシナリオが完成しました。

1961年創業の新宿のジャズ喫茶DIG(現在はDUG)には寺山修司のほか三島由紀夫や村上春樹も通っていました。

1960年に、私生活では母と数十年ぶりに同居をはじめます。新宿周辺のジャズ喫茶にも通うようになりました。また、後に結婚する九條今日子との出会いもありました。

1961年には篠田正浩監督作品に2本のシナリオを書くなど、1962年にかけて多くのドラマ・ラジオの脚本を書き上げます。ボクシング評論を書き始めたのもこの頃です。また、寺山にシナリオについて教えを受けていた競馬評論家でもある山野浩一の影響で、競馬場にも通い出します。

公私ともに順風満帆な毎日

寺山修司と九條今日子は吉祥寺カトリック教会で結婚式を挙げます。

1963年、女優であった九条今日子と結婚します。この頃から寺山の作品が海外でも評価されるようになってきます。

1964年に発表した放送劇「山姥」でイタリア賞グランプリを受賞します。放送詩劇「大礼服」では芸術祭奨励賞を受賞しました。

1965年にはラジオ「犬神の女」で第一回久保田万太郎賞を、テレビインタビュー番組「あなたは・・・」で芸術祭奨励賞を受賞しました。

1966年、ラジオドラマ「コメット・イケヤ」でイタリア賞グランプリ、ドキュメンタリー「おはようインディア」で芸術祭放送記者クラブ賞、テレビドラマ「子守唄由来」で芸術祭奨励賞を受賞します。「アサヒグラフ」などに連載を掛け持ちするなど、多忙を極めた時期でした。

1967年には放送叙事詩「まんだら」が芸術祭賞を受賞しています。

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