寺山修司とはどんな人?生涯・年表まとめ【短歌や名言、死因も紹介】

寺山映画の黄金期

1974年、寺山にとって長編映画の代表作となる「田園に死す」が芸術祭新人賞を受賞します。この作品は寺山自身が製作・原作・脚本・監督を務めました。1975年にはカンヌ国際映画祭に出品されるなど、世界的に高い評価を受けました。

実験映画「迷宮譚」がオーバーハウゼン実験映画祭銀賞を受賞したのは1975年です。

1979年には実験映画「マルドロールの歌」がリール国際短編映画祭国際批評家大賞を受賞します。

1979(昭和54)〜1983(昭和58)年 – 43〜47歳「病と戦いながらも駆け抜けた晩年」

「奴婢訓」
出典:日本の古本屋

写真家「寺山修司」

今も開催されると多くの人が詰め掛ける寺山修司の写真展

寺山は表現方法の一つとして写真も扱っていました。カメラマンになりたいと荒木経惟に弟子入りしています。1977年ごろより「寺山修司幻想写真展」をアムステルダムで巡回していました。寺山の写真は世界中で評判となり、1978年には写真ワークショップも開きました。

天井桟敷後期の代表作「奴婢訓」

1978年にオランダで「奴婢訓」を上演した際の舞台模型

1978年、天井桟敷公演として「奴婢訓」が上演されます。東京を皮切りに1980年のアメリカ公演まで、世界を巻き込んで最も多くの都市で上演された作品です。「主人の不在」をテーマにしているこの芝居は、寺山の哲学に対する関心の深さが見てとれます。世界各国の劇評が絶賛し、天井桟敷の世界的名声が高まりました。

1972〜1993年まで発売されていた雑誌「シティロード」

1980年、雑誌「ぴあ」と並んでエンタメ情報誌として人気があった「シティロード」読者選出ベストテンで、寺山は演劇作家・演出家部門、ベストプレイ部門で2年連続第一位に輝きます。当時の寺山や天井桟敷に対する熱狂ぶりがよくわかります。

1981年、「奴婢訓」が「ヴィレッジャー」紙の最優秀外国演劇賞を受賞しました。1982年のパリでの上演が最後の海外公演となりました。

1982年12月、「レミング ー 壁抜け男」の演出が、寺山の演出家としての最後の仕事となります。この時、寺山の身体は既に回復不能な状況まできていたのです。

仲間に見送られた最期

肝硬変で入院したのは1979年でした。1982年には谷川俊太郎とビデオレターの交換を始めたり、大学時代の親友山田太一に会いに行ったりするなど、この頃から寺山は死を意識した行動に出るようになります。入退院を繰り返していましたが、1982年、不治の病であることを公表します。しかし意識が続く限り、寺山は創作に打ち込みました。

1983年4月22日、意識不明となり入院します。5月4日午後0時5分に息を引き取りました。肝硬変と腹膜炎のために敗血症となったことが死因でした。享年47歳という早過ぎる死でした。寺山の急変で公開待ちとなっていた映画「さらば箱舟」は、寺山の死後9月4日に公開されました。

寺山修司の墓

5月4日から5日にかけて天井桟敷館で仮通夜が行われました。青山斎場にて行われた葬儀と告別式では、葬儀委員長を谷川俊太郎が務め、中井英夫、山田太一、十郎、鈴木忠志、山口昌男という錚々たる面々が弔辞を捧げました。この時の彼らの弔辞はどれも寺山への愛が込められたもので、今も語り継がれる名文として知られています。

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