芹沢鴨はどんな人?生涯・年表まとめ【暗殺の背景や愛刀、子孫も紹介】

粗暴な気性の持ち主

京都にある水戸藩邸の石碑
出典:Wikipedia

芹沢は豪傑と評されるオーラがありましたが、一方で酒浸りな人物でした。昼間から酒を飲み、酔っていない事はなかったと言われます。酒乱の影響なのか、元々の性格なのかは不明ですが、芹沢は様々な場面で揉め事を起こしています。

そもそも芹沢が入獄したのは尊王攘夷運動の資金調達の為に「強引な取り立てを行った為」でした。後に芹沢は恩赦で出獄するものの、水戸藩の重鎮達は芹沢の危険性を踏まえて、釈放に躊躇していたともされています。

壬生浪士組の局長に就任後も芹沢は問題行動を繰り返しました。例えば「力士と揉め事を起こし、死傷者が出た」「壬生浪士への活動資金借用を断った大和屋を焼き討ちする」「遊郭・吉田屋で乱暴を働いた上に、芸妓を断髪させた」などです。

芹沢鴨を高く評価していた永倉新八
出典:幕末ガイド

一連のエピソードをみれば芹沢はただの「危険人物」です。しかし芹沢は剣術の腕前は随一で、教養も兼ね備えていました。壬生浪士組が拠点にしていた八木邸の主人は芹沢を高く評価しており、新撰組二番隊隊長の永倉新八も芹沢と仲が良かったそうです。

芹沢は人を惹きつけるカリスマ性を備えていた事は間違いないのです。

内部抗争の末に暗殺される

新撰組や壬生浪士組の屯所だった八木邸
出典:Wikipedia

芹沢は文久3年(1863年)9月16日もしくは18日に暗殺されました。実行犯は「新選組遺聞」や「新撰組始末記」によれば土方歳三、沖田総司、原田左之助、山南敬助。永倉新八の「浪士文久報国記事」によれば土方、沖田、藤堂平助、御倉伊勢武とされます。

壬生浪士組は芹沢鴨派と近藤勇派の派閥争いも起きていた他、壬生浪士組を預かっていた京都守護職の松平容保も芹沢の狼藉に困っていました。芹沢暗殺を命じたのは容保の可能性もありますが、近藤派との利害も一致していたと言えますね。

暗殺当日、島原の角屋で宴会を終えた芹沢は、八木邸で再度、平山五郎、平間重助と宴会を催します。その時に芹沢の愛妾のお梅の他、平山と平間の馴染みの芸妓も同席しています。宴会を終えた頃、芹沢達は女達と同衾しました。

八木邸にある芹沢暗殺時の刀傷
出典:soul jemの聖地巡礼日記 アニメや歴史の聖地巡礼記録

大雨が降る深夜、実行犯は芹沢の寝ている部屋に押し入り、平山を殺害。斬り付けられた芹沢は全裸で応戦するものの、あえなく暗殺されました。平間の他、2人の芸妓は逃走するものの、芹沢と寝ていたお梅は首を斬られて殺害されています。

芹沢の暗殺は「長州藩士の仕業」とされ、近藤勇らによって芹沢の盛大な葬式が執り行われています。芹沢の暗殺が近藤派によるものと判明するのは明治に入ってからでした。

芹沢の愛人・お梅の存在

現在の芸妓
出典:Wikipedia

芹沢には「お梅」という名の愛人がいました。芹沢と共に暗殺される数奇な運命を辿った女性です。

お梅は島原のお茶屋にいた芸妓で、22〜23歳程の垢抜けた美人でした。やがて呉服商の菱屋太兵衛に見染められ、妾になっていたのです。

芹沢が壬生浪士組の筆頭局長の頃、隊士全員分の隊服は全て菱屋太兵衛の店で揃えていたものの、費用は全て芹沢のツケでした。太兵衛は代金を支払わない芹沢に困り果てます。

太兵衛は「女の方が代金を回収しやすい」と考え、妾にしていた「お梅」を芹沢の元に向かわせました。お梅は芹沢に追い返されるうちに手籠めにされたものの、次第に芹沢に惹かれて行ったとされます。

面白くないのは借金を踏み倒され、お梅を取られた菱屋太兵衛です。芹沢とお梅が暗殺された時、太兵衛はお梅の遺体の引き取りを拒否。遺体は3〜4日も放置されました。遺体は八木家が手を尽くし、お梅の里に引き取らせた、無縁仏として葬ったとされます。

子母澤寛
出典:新潮社

以上の記録は子母澤寛という新撰組の書物を多く残した作家が、昭和になり八木邸の子息だった八木為三郎から証言を得たものです。「お梅は手篭めにされたのに、芹沢を愛した」という点も、実は相思相愛な関係が存在したのかもしれません。

1 2 3 4 5 6 7

コメントを残す