芹沢鴨はどんな人?生涯・年表まとめ【暗殺の背景や愛刀、子孫も紹介】

芹沢鴨の生涯年表

芹沢鴨の生涯について今から解説していきますが、前述した通り、芹沢の生涯は謎に包まれています。今回は「芹沢鴨=下村嗣次」という説と、天保3年(1832年)に誕生したという説をもとに話を進めていきますね。

1832年 – 0歳「芹沢鴨誕生?」

水戸城にある薬医門
出典:Wikipedia

芹沢鴨のルーツ

芹沢鴨は天保3年(1832年)頃に誕生したとされます。その他には文政9年(1826年)や天保元年(1830年)説がありますが、多くの資料では天保3年(1832年)を採用しています。

芹沢は水戸藩の郷士・芹沢家の当主である「芹沢貞幹の三男」とされてきました。ただ家系図を再考した所、貞幹の四男が1824年もしくは1826年に誕生した事が判明しており、辻褄が合わなくなっているのです。

また新撰組の生き残りである島田魁は芹沢鴨の事を「又右(左)衛門 子」と書き残しています。様々な考証から近年では「芹沢鴨は又右衛門の子」という説が有力になりつつあります。

下村家の養子に

いつ頃から不明なものの、芹沢は神職の一族である下村家の養子になっています。この時代、家督を相続出来なかった次男坊以下は他家の養子になる事が多く、芹沢が養子入りした事は珍しい事ではありません。

芹沢はいくつかの家を渡り歩きながら、教養と武芸を磨いていきました。

1853〜1860年 – 22〜29歳「尊王攘夷運動に身を投じる」

黒船来航
出典:Wikipedia

水戸藩と尊王攘夷

1853年にペリー率いる黒船が日本に来航。国内では「君主を尊び、外敵を斥けようとする思想」である尊王攘夷運動が台頭します。水戸藩はもともと水戸光圀の影響から勤皇精神が強く、尊王攘夷運動の総本山と言える場所でした。

当時、下山家の養子になっていた芹沢も尊王攘夷運動に身を投じていきます。万延元年(1860年)に芹沢は玉造勢という組織に加入。玉造勢は玉造村(現・茨城県行方市)を拠点に尊王攘夷運動を行う組織であり、後の天狗党の前身になる組織でもありました。

開国に揺れる日本

当時の日本は「横浜を開港するか否か」で揺れていました。玉造勢は開港を阻止する為に、尊王攘夷運動を展開。「無二無三日本魂」といった幟を掲げ、周辺地域の豪商にお金を募っていたのです。

芹沢は熾烈な取り立てを行なっており、佐原村の名主・伊能権之丞を鉄扇で殴打する等の暴挙に出ています。ちなみにこの頃の芹沢の同志には、新家粂太郎という人物もおり、彼は後に壬生浪士組の局長になる新見錦の前名と推測されているのです。

1861〜1863年 – 30〜32歳「芹沢の投獄」

天狗党には略奪を働くものがごく一部いたとされる
出典:Wikipedia

投獄される芹沢

芹沢のお金の取り立ては強引な上、水戸藩の領地だけでなく幕府の直轄地でも行われました。江戸幕府は、水戸藩に攘夷派の活動を抑制するよう通達。水戸藩では保守派の諸生党と呼ばれる勢力が台頭し、玉造勢は水戸藩により弾圧され始めます。

芹沢は文久元年(1861年)3月28日、遊女いろ八と芹沢外記邸にいた所を捕縛されました。この頃の芹沢は配下を200〜300人も抱える大幹部だったという説もあります。芹沢は長い入牢生活を経て、文久2年(1862年)9月16日に処刑判決を受けています。

死に場所を失った男

結局、芹沢は処刑されませんでした。芹沢が入牢中に水戸藩の勢力図は一変し、攘夷急進派が政権を取り戻したからです。12月に恩赦が始まるものの「芹沢の危険性」に苦慮する声もあり、彼が出獄を許されるのは、文久3年(1863年)1月初旬の事でした。

芹沢は入牢中に死を覚悟し「雪霜に 色よく花の 咲きがけて 散りても後に 匂ふ梅が香」という辞世の句を残しています。実際、獄死した同志もおり、芹沢はある意味で死に場所を失ったとも言えるのです。

釈放後に「下村嗣次」という男は姿を消し、代わりに歴史に名前が登場したのは「芹沢鴨」という男でした。この史実からも「下村嗣次=芹沢鴨」という事は間違いないとされています。

1861年2月 – 32歳「浪士隊に参加する」

清河八郎
出典:Wikipedia

浪士隊に参加する

文久3年(1863年)2月5日、江戸で「14代将軍・徳川家茂の上洛に対して警護をする組織」の応募が行われます。これは浪士組と呼ばれ、芹沢鴨は新見錦・平山五郎・野口健司・平間重助などの同志と共に参加しています。

同じく浪士組には江戸の剣術道場・試衛館の出身者である近藤勇や土方歳三なども参加しており、芹沢は彼らと京都まで行動を共にしています。

清河八郎の策略

2月23日に彼らは京都に到着します。しかし浪士組の発案者・清河八郎は「浪士組を将軍警護ではなく、尊王攘夷の先鋒にする事」を考えていました。29日に清河は攘夷決行の為に江戸帰還を宣言しますが、芹沢派や近藤派はこれに反発しています。

結果的に清河八郎と200名程の面々は江戸に戻り、新徴組を結成。これに納得出来ない芹沢を含む17人(もしくは24人)は京都に残留。彼らは後に壬生浪士組を結成すると事になるのです。

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