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芹沢鴨はどんな人?生涯・年表まとめ【暗殺の背景や愛刀、子孫も紹介】

芹沢鴨は幕末の水戸藩浪士で、新撰組の前身である壬生浪士組(みぶろうしぐみ)の局長を務めた人物です。粗暴で酒乱な人物として知られていましたが、組内の派閥争いを機に暗殺されました。

その後、台頭したのは皆さんもご存知の近藤勇です。それ故に芹沢が局長を務めていた事を知らない人も多いかもしれません。

芹沢鴨の墓
出典:墓マイラーが行く

一般的に芹沢は「近藤勇」の引き立て役というイメージが強いです。ただ芹沢は卓越した剣術の腕前を持つと共に、非常にスケールの大きい人物でした。

謎も多い人物ですが、出生についても明らかになりつつあります。今回は知られざる芹沢の生涯を解説します。

謎の多い志士の生涯に迫っていきましょう。

芹沢鴨とはどんな人物か

名前芹沢鴨(前名は下村嗣次)
誕生日天保3年(1832年)?
没日文久3年(1863年)
9月16日 もしくは18日
生地多賀郡松井村?
(現・北茨城市)
没地八木邸(京都市中京区)
配偶者妻がいたとされるが
詳しくは不明
埋葬場所壬生寺(京都市中京区)

芹沢鴨の生涯をハイライト

新撰組の御旗
出典:Wikipedia
  • 文政9年〜天保3年(1826〜1832年)頃に誕生し、後に下村嗣次と名乗る
  • 安政5年(1858年) 戊午の密勅の返納阻止運動に参加
  • 万延元年(1860年)天狗党に参加
  • 文久元年(1861年)狼藉の末に捕縛される
  • 文久3年(1863年)1月頃 出獄
  • 文久3年(1863年)2月 浪士組に参加
  • 文久3年(1863年)3月 壬生浪士組を結成し、筆頭局長となる
  • 文久3年(1863年)9月 内部抗争の末に暗殺

謎多き新撰組の初代局長

芹沢の写真とされるが、偽物である事が判明している
出典:草の実堂

芹沢鴨は新撰組の前身・壬生浪士組の初代局長となった人物です。容姿は「高身長で太っていた」「色白で目は小さかった」などとされているものの、素性やその事実は今もなお不明なままです。芹沢鴨とされる写真も偽物であることが判明しています。

ただ芹沢は水戸藩(現・茨城県)の郷士・芹沢家出身の人物だった事は間違いありません。芹沢鴨は「芹沢家当主・芹沢貞幹の三男」とされていましたが、近年では「本家の芹沢家から分家した芹沢又衛門の子供」という説が有力視されています。

芹沢鴨は神職の下村家の養子になるものの、尊王攘夷運動に身を投じ、何度も投獄されていたようです。文久3年(1863年)2月5日に江戸幕府が「京都に向かう将軍の警護をする浪士隊」を募集。釈放されていた芹沢は同志と共にこれに応募したのです。

当時の徳川将軍・徳川家茂
出典:Wikipedia

3月10日に京都で「壬生浪士組」が結成された時、組内は芹沢派と、江戸の剣術道場・試衛館の出身である近藤勇派に分かれていました。結果的には芹沢、近藤、水戸藩出身の新見錦が壬生浪士組の局長となり、芹沢が筆頭の局長になったのです。

芹沢は謎も多く、異説も多いです。ただ芹沢が使う署名には「芹沢鴨 平光幹」と書かれており、これは「芹沢家」に詳しい者しか知り得ない書き方でした。彼が壬生浪士組の局長に任命されるには「それだけの理由」があった事は間違いないのです。

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粗暴な気性の持ち主

京都にある水戸藩邸の石碑
出典:Wikipedia

芹沢は豪傑と評されるオーラがありましたが、一方で酒浸りな人物でした。昼間から酒を飲み、酔っていない事はなかったと言われます。酒乱の影響なのか、元々の性格なのかは不明ですが、芹沢は様々な場面で揉め事を起こしています。

そもそも芹沢が入獄したのは尊王攘夷運動の資金調達の為に「強引な取り立てを行った為」でした。後に芹沢は恩赦で出獄するものの、水戸藩の重鎮達は芹沢の危険性を踏まえて、釈放に躊躇していたともされています。

壬生浪士組の局長に就任後も芹沢は問題行動を繰り返しました。例えば「力士と揉め事を起こし、死傷者が出た」「壬生浪士への活動資金借用を断った大和屋を焼き討ちする」「遊郭・吉田屋で乱暴を働いた上に、芸妓を断髪させた」などです。

芹沢鴨を高く評価していた永倉新八
出典:幕末ガイド

一連のエピソードをみれば芹沢はただの「危険人物」です。しかし芹沢は剣術の腕前は随一で、教養も兼ね備えていました。壬生浪士組が拠点にしていた八木邸の主人は芹沢を高く評価しており、新撰組二番隊隊長の永倉新八も芹沢と仲が良かったそうです。

芹沢は人を惹きつけるカリスマ性を備えていた事は間違いないのです。

内部抗争の末に暗殺される

新撰組や壬生浪士組の屯所だった八木邸
出典:Wikipedia

芹沢は文久3年(1863年)9月16日もしくは18日に暗殺されました。実行犯は「新選組遺聞」や「新撰組始末記」によれば土方歳三、沖田総司、原田左之助、山南敬助。永倉新八の「浪士文久報国記事」によれば土方、沖田、藤堂平助、御倉伊勢武とされます。

壬生浪士組は芹沢鴨派と近藤勇派の派閥争いも起きていた他、壬生浪士組を預かっていた京都守護職の松平容保も芹沢の狼藉に困っていました。芹沢暗殺を命じたのは容保の可能性もありますが、近藤派との利害も一致していたと言えますね。

暗殺当日、島原の角屋で宴会を終えた芹沢は、八木邸で再度、平山五郎、平間重助と宴会を催します。その時に芹沢の愛妾のお梅の他、平山と平間の馴染みの芸妓も同席しています。宴会を終えた頃、芹沢達は女達と同衾しました。

八木邸にある芹沢暗殺時の刀傷
出典:soul jemの聖地巡礼日記 アニメや歴史の聖地巡礼記録

大雨が降る深夜、実行犯は芹沢の寝ている部屋に押し入り、平山を殺害。斬り付けられた芹沢は全裸で応戦するものの、あえなく暗殺されました。平間の他、2人の芸妓は逃走するものの、芹沢と寝ていたお梅は首を斬られて殺害されています。

芹沢の暗殺は「長州藩士の仕業」とされ、近藤勇らによって芹沢の盛大な葬式が執り行われています。芹沢の暗殺が近藤派によるものと判明するのは明治に入ってからでした。

芹沢の愛人・お梅の存在

現在の芸妓
出典:Wikipedia

芹沢には「お梅」という名の愛人がいました。芹沢と共に暗殺される数奇な運命を辿った女性です。

お梅は島原のお茶屋にいた芸妓で、22〜23歳程の垢抜けた美人でした。やがて呉服商の菱屋太兵衛に見染められ、妾になっていたのです。

芹沢が壬生浪士組の筆頭局長の頃、隊士全員分の隊服は全て菱屋太兵衛の店で揃えていたものの、費用は全て芹沢のツケでした。太兵衛は代金を支払わない芹沢に困り果てます。

太兵衛は「女の方が代金を回収しやすい」と考え、妾にしていた「お梅」を芹沢の元に向かわせました。お梅は芹沢に追い返されるうちに手籠めにされたものの、次第に芹沢に惹かれて行ったとされます。

面白くないのは借金を踏み倒され、お梅を取られた菱屋太兵衛です。芹沢とお梅が暗殺された時、太兵衛はお梅の遺体の引き取りを拒否。遺体は3〜4日も放置されました。遺体は八木家が手を尽くし、お梅の里に引き取らせた、無縁仏として葬ったとされます。

子母澤寛
出典:新潮社

以上の記録は子母澤寛という新撰組の書物を多く残した作家が、昭和になり八木邸の子息だった八木為三郎から証言を得たものです。「お梅は手篭めにされたのに、芹沢を愛した」という点も、実は相思相愛な関係が存在したのかもしれません。

芹沢鴨の子孫は今も健在?

芹沢鴨の生家とされた場所(近年は疑問視されている)
出典:芹沢鴨生家跡(行方市・旧玉造町) 新選組の筆頭局長・芹沢鴨生家跡

「芹沢鴨の子孫」については詳しくは不明です。芹沢は妻子がいたものの、浪士組に加入する前に離別していたとされます。この記述は芹沢と仲の良かった永倉新八が「新選組顛末記」に遺しており、事実と思われますが詳細は不明です。

ネット上では芹沢鴨の子孫として、昭和後半に弁護士となった芹沢力雄氏が浮かび上がります。ただ彼は芹沢鴨の直系ではなく「芹沢家本家の当主・芹沢貞幹」の一族です。

前述した通り、芹沢鴨は「芹沢貞幹の三男」ではなく「本家の芹沢家から分家した芹沢又衛門の子供」という説が有力視されています。つまりネット上で提唱されていた芹沢力雄と芹沢鴨の血縁関係には大きな隔たりがあると言えるのです。

また芹沢は神職の下村祐の家に養子入りした時に、下村嗣次と名乗りました。嗣次には常親という子がいたとされますが「常親=離別した子」とは限りません。常親は1844年生まれで芹沢が12歳の子になる為、矛盾するからです。

芹沢鴨の子孫は不明ですが、あちこちで女性に手を出してきた男です。もしかしたら「知られていない芹沢の子孫」がどこかにいるのかもしれませんね。

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