1861年3月 – 32歳「壬生浪士組の局長筆頭になる」
壬生浪士組結成
3月10日、京都に残留した面々は京都守護職の立場にあった松平容保の「御預かり」となります。彼らは八木邸を拠点に活動を開始します。
彼らは「壬生浪士組」と呼ばれるものの、早速内部抗争が勃発。3月25日には殿内義雄が近藤に暗殺させられ、4月24日に家里次郎が芹沢や近藤により切腹させられています。更に根岸友山らが逃亡すると、壬生浪士組は近藤派と芹沢派が牛耳る事になりました。
この状況下、芹沢鴨が壬生浪士組の局長筆頭、近藤勇と新見錦が局長となり(新見は副局長にすぐに降格)、壬生浪士組の序列は決まりました。なぜ、芹沢が局長筆頭になったのかは不明なものの、玉造勢の大幹部だった事が要因かもしれません。
1861年6月 – 32歳「問題行動を起こし始める」
芹沢という危険な男
芹沢は今橋の平野屋五兵衛から百両を借用したり、松平容保に攘夷実行の上書を提出するなど、局長としての責務をこなしていきます。ただ同時に様々な揉め事も起こし始めました。
6月3日に「不逞浪士」取締りの為に芹沢ら8人(10人説あり)は大阪に下向。道を譲らなかった力士に芹沢は暴行を加えました。報復に来た力士20余名と、芹沢や沖田などの隊士達は乱闘騒ぎを起こし、力士を死傷させています。
角屋での暴挙
同月に京都で乱暴狼藉を働く壬生浪士組に、水口藩の公用方は会津藩に素行の悪さを訴えました。それに激怒した芹沢は隊士を水口藩に向かわせ、当事者の身柄引き渡しを求めました。対応者は平伏し、詫び証文を書いて、その場を納めさせています。
藩主に詫び証文の記載がバレる事を恐れた対応者は、仲介人を通して証文の返却を依頼。芹沢はそれを口実に水口藩に宴会をする事を要求しています。島原の角屋で宴会が行われ証文は返却されるものの、芹沢は「店の態度が悪い」と立腹しました。
結果的に芹沢は店の中で暴れまわり、店主の角屋徳右衛門に7日間の営業停止を命じています。芹沢は京都の街を恐怖に陥れつつあったのです。
1861年8月 – 32歳「大和屋焼き討ちに八月十八日の政変」
大和屋の焼き討ち
ある日、京都にある大和屋という豪商が尊王攘夷派の天誅組に軍資金を提供したという噂が芹沢の耳に入ります。ただ天誅組は「幕府の倒幕」を目論むグループで、壬生浪士組とは方向性が違いました。
8月12日に芹沢は資金調達の為に隊士を連れて大和屋を訪れます。しかし大和屋は主人の不在を理由に資金調達を拒否。立腹した芹沢は35人の隊士を連れて大和屋を訪れ、大和屋に火を付けて全焼させました。
八月十八日の政変
乱暴狼藉の限りを尽くす芹沢ですが、その直後に起こる八月十八日の政変では幕府側の警備として参加しています。芹沢の処遇に会津藩は頭を抱えていました。
1861年9月 – 32歳「芹沢の逮捕命令が出る?」
芸妓の髪を断髪させる
9月に壬生浪士組は幕府の要人警護の為に大阪に出張しています。この時に芹沢は永倉新八とお酒を飲んでいました。芹沢は吉田屋のお気に入りの芸妓・小寅を永倉はお鹿という中居を呼び寄せて宴会は再開されます。
宴会が終わる頃、芹沢は小寅に「帯を解け」と要求。芹沢を嫌う小寅はそれを許しませんでした。宴会は終了するものの、翌日に芹沢は「昨夜の2人の態度は失礼なので二人の首を斬る」と永倉に伝えています。そしてその日は吉田屋に行く事になりました。
永倉は情報を事前に吉田屋に伝え、吉田屋は芹沢を丁重に出迎えて芹沢の機嫌を取ろうとしました。しかし芹沢の怒りは収まらず、小寅とお鹿の髪を断髪。その髪の毛を酒の肴にして宴会をしています。
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朝廷も芹沢を見限る
この行動に朝廷は立腹。会津藩に芹沢の逮捕命令を出したとされます。この頃に芹沢に立腹していたのは松平容保だけでなく、もう1人の局長である近藤勇も同様でした。何かしらの策略が両者の中にあったのかもしれません。
余談ですが髪を切られた小寅は「嫌な客には肌を見せない態度が立派」と評判になり、裕福な町人に身請けされました。お鹿も永倉が他家に縁組させるさせており、2人に救いはあったようですね。
1861年9月16日 – 32歳「芹沢鴨暗殺」
芹沢鴨暗殺
芹沢は前述した通り、9月16日に宴会の後に八木邸で暗殺されます。年齢は不明なものの、暗殺された時には30代くらいに見えたとされます。
お梅は共に暗殺されたものの、他の2人の芸妓は難を逃れました。その事から事前に彼女達には暗殺が行われる事が知られていたのかもしれません。芸妓達は暗殺後に姿を消し、その後の消息は不明です。
芹沢の葬儀は暗殺された日の夜に盛大に執り行われました。そして芹沢の死から1週間後の9月25日に壬生浪士組は隊名を「新撰組」と改めています。芹沢の死を経て、新撰組は新たな局面を迎えたのでした。