30位:菊池正-一家強盗殺人犯
「おかやん、おかやん。助けてくれよ、おかやん」
菊池正は、1953年に「栃木・雑貨商一家殺人事件」という雑貨商一家4名を殺害した事件です。
母親の治療費を捻出するために、雑貨商一家に強盗し一家を殺害しました。そんな菊池正の最後の言葉は、まるで子供のように母に助けを求めていたといいます。
29位:永山紀夫-連続射殺犯
「俺を殺したら革命が起こるぞ!」
永山紀夫は、1968年に東京・京都・北海道・名古屋でガードマンやタクシー運転手を殺害した、「永山紀夫連続射殺事件」の犯人です。そんな永山の最後の言葉と伝わる言葉ですが、最近はデマだったという噂もあります。
しかし、死刑囚最後の言葉としては、かなり有名な言葉でもあります。
28位:宮崎勤-幼女誘拐殺人犯
「あのビデオまだ途中だったのにな…」
宮崎勤は、東京埼玉連続少女殺害誘拐事件の犯人です。
1988年から1989年までに4歳から7歳までの少女を殺害。そして異常な声明文を新聞社に送り付けたり、遺骨を遺族に送ったりと世間を震撼させました。
そんな宮崎は、刑務所でビデオ鑑賞が許されており、死刑執行の朝に上記の言葉を残したそうです。
27位:ジョセフ・クラーク-連続殺人犯
「今日、私の人生は、薬物によって閉じる。剣に生きた者は、剣によって滅びるということだ」
ジョセフ・クラークは、麻薬を買う金欲しさに殺人や強盗、恐喝を繰り返した人物です。
彼は2006年に薬物注射による死刑が執行されましたが、腕の静脈を探すのに手間取った上、薬物を流し込まれた静脈は破裂しました。
静脈が破裂した時、クラークは執行人に「これ入ってないよ」と異例の注意喚起をしています。そんな経緯もあり、彼の死刑の様子は全世界に報道されました。
26位:中島一夫-強盗殺人犯
「あの世で被害者に会ってお詫びできることを思うとやはり死ぬことは喜びです」
中島一夫は1966年に埼玉県春日部で、強盗殺人を起こして死刑判決を受けた人物です。
中島は窃盗等で服役していましたが、出所後すぐに賭博で一文なしとなり、金を奪う為に2ヶ所の住宅に侵入。殺人に強姦致死、強盗に放火と悪行を重ねました。
彼は死刑判決後に反省の言葉を述べており、死後に詫びる事を宣言しました。ただ一連の犯行が許されるものではないのは明白です。
25位:ドクター・トマス・ニール・クリーム-連続殺人犯
「わたしがジャック・ザ…」
ドクター・トマス・ニール・クリームは1881年から1892年にかけて、アメリカやイギリスで5人以上の人々を毒殺した人物です。彼は1892年6月に逮捕され、5ヶ月後には絞首刑となりました。
彼は死に際に「自らが切り裂きジャックと告白しかけた」という噂があり、死刑執行に立ち会った警察官吏達も否定していません。ただ切り裂きジャックが事件を起こした頃、彼は別件で収監中で犯行は不可能だった為、彼がジャックである事は否定されています。
24位:西口彰-連続殺人犯
「遺骨は別府湾に散骨してください、アーメン」
西口彰は、1963年から1964年にかけて5人を殺害した罪で、1970年に死刑になった人物です。彼は殺人以外に詐欺が10件、窃盗が2件と犯罪の常習犯で、「戦後最悪の連続殺人」と称されました。
彼は恐喝罪や詐欺などで服役と出所を繰り返しており、根っからの悪人だったようです。彼の最期の言葉である「アーメン」は、キリスト教の祈祷に使われるもの。カトリックの家庭に生まれ、幼少期に洗礼を受けていた事が関係しているのでしょう。
23位:日高信子-放火殺人
「目隠しを取ってもらえませんか。もう一度先生(刑務官)の顔を見たい」
日高安政と信子夫婦は1984年に起きた保険金目的の放火事件の首謀者です。
2人は従業員に会社に火をつけるよう命じ、消防士を含む7人が死亡。火をつけた従業員が自首し、夫婦は逮捕されました。
夫婦は一審判決で死刑判決が下るものの、昭和天皇の崩御に伴う恩赦に期待し控訴しなかった為、死刑が確定します。しかし恩赦は行われず、2人は1997年に刑が執行されました。
刑執行時は抵抗した信子ですが、最期には観念して上記の言葉を遺しています。
22位:篠沢一男:放火殺人
「ゴルァ!おまえら、殺す気だろーーーーーー?!」
篠沢一男は、2000年に宇都宮にある宝石店に侵入し、1億4000万円相当の宝石を盗み、従業員に火をつけて宝石店を放火した人物です。
この事件で宝石店の店員6名が死亡しました。篠澤は翌日に逮捕され、2007年に死刑が確定します。
篠澤は職を転々としつつ、親の脛をかじり借金を重ねてきた男。死刑執行時も、刑務官に高圧的な態度を取り続け、全く反省する事はありませんでした。
21位:栗田源蔵:連続殺人犯
「先生、生きたいんです。助けてください。」
栗田源蔵は、1948年から1951年にかけて7人を殺害して死刑になった人物です。
粟田は交際相手とのもつれや強姦目的で殺人を犯しますが、その中でも「おせんころがし事件」は日本事件史上もっとも恐ろしい事件の一つとされます。
後に粟田は逮捕され、1959年に死刑が執行されました。判決後の粟田は当初は暴力的だったものの、後に精神衰弱になっています。死刑執行時には命乞いをする等、救いようのない人物でした。
最悪森永の面接落ちた
黙れクズ社会の恥がキモいから二度と呼ぶなクソが