黒澤明の功績
功績1「斬新な撮影手法を編み出す」
黒澤は斬新な撮影手法で映画界に新たな風を吹き込みました。アクションシーンではスローモーション撮影を行い、緩急をつけて躍動感を表現。サイレント映画以来、あまり使われていなかったワイプも採用し、場面転換の技法として取り入れています。
黒澤作品は登場人物だけでなく、背景も質が高いです。これは画面全てにピントを合わせる「パンフォーカス撮影」という技法が使われています。当時の望遠レンズでこの撮影は至難の業でしたが、照明を多く照らしてこの技法を確立させました。
更に複数のカメラで同時撮影する「マルチカム撮影法」を考案。俳優がカメラを意識しなくなり、思いもよらぬ場面が撮れる事もありました。更にモノクロ映画で雨の場面を再現する為、墨汁を混ぜた水を使用する等、型破りな発想力もあったのです。
黒澤の撮影手法は多くの映画に影響を与え、映画の表現力や可能性を更に高めたのです。
功績2「戦後復興の日本人の支えとなる」
1945年8月15日に日本は敗戦を迎え、日本は連合国の支配下に置かれます。そんな状況でも黒澤は映画制作を開始しました。当時の作品からは「国民と苦楽を共にしたい」という姿勢が見えてきます。
1947年には敗戦直後の貧しい恋人を描いた「素晴らしき日曜日」を、1948年には戦後のヤクザと医者のぶつかり合いを描いた「酔いどれ天使」を発表。両作品は復興に励む国民に強いメッセージを与えました。
遂に1950年には「羅生門」が監督されます。当作品は日本よりも海外で高い評価を受け、ヴェネツィア国際映画祭のグランプリである「金獅子賞」を受賞しました。世界は日本の映画に注目し始め、日本の映画が世界に進出する契機となったのです。
敗戦に打ちひしがれる日本人にとって、羅生門の存在は希望と自信を与えました。戦後の日本が驚異的な復興を遂げたのも、黒澤が私達に日本人としての誇りを呼び戻してくれた事が大きいのかもしれません。
黒澤明の名言
一日に一枚しか書けなくても、一年かければ、365枚のシナリオが書ける。私はそう思って、一日一枚を目標に、徹夜の仕事の時は仕方がなかったが、眠る時間のあるときは、寝床に入ってからでも、二、三枚は書いた
黒澤は生涯に途方も無い枚数のシナリオを書き続けました。習慣を続ける事は何よりも難しいものの、確実に自分を成長させます。継続する事の大切さを黒澤は教えてくれているのです。
些細なことだといって、ひとつ妥協したら、将棋倒しにすべてがこわれてしまう
映画に並々ならぬこだわりを見せた黒澤ですが、その根底には妥協する事で全てがダメになってしまうという懸念がありました。些細な妥協が積み重なると、それは黒澤が頭に描いた作品ではありません。
名作と呼ばれる作品は黒澤が妥協を許さなかったからこそ、生み出されたものなのですね。
私はまだ、映画がよくわかっていない。
黒澤は1990年のアカデミー賞で特別名誉賞が贈られました。その時のスピーチの一文です。黒澤は誰よりも映画に対して真摯に取り組むと共に謙虚な人でした。このスピーチは世の中の映画監督の心を突き動かしたのです。
黒澤明にまつわる逸話
逸話1「当初は画家を志していた?」
黒澤は最初から映画監督を志していたのではなく、元々は画家志望でした。きっかけは小学校の先生に絵を褒められた事です。17歳で川端画学校に通い、翌年には油絵が二科展に入選しています。黒澤は絵の才能もあったのです。
やがて黒澤は1930年ごろから「過酷な労働者の現実を表現するプロレタリア芸術」に傾倒。労働組合の必要性を訴えた、政治色の強いポスター等も制作しました。
しかし黒澤は「日本の社会に対する不満と嫌悪」からプロレタリア芸術に迎合しただけで、共産主義者ではありません。自分の政治的主張の整理がつかないままに絵を生み出すことに嫌気がさし、黒澤は絵の仕事から遠ざかっていきます。
黒澤は1936年、26歳でP.C.L.映画製作所の助監督になり、映画の世界で才能を開花していきました。黒澤が絵の世界で生き続ける事を選んでいたら、日本の映画界は大きく違っていた事でしょう。反対に素晴らしい絵が生まれた可能性もありますけどね。