黒澤明の生涯・作品まとめ【息子や孫、名言も簡単に紹介】

逸話2「三船敏郎と数々の作品でコンビを組んだ」

1954年頃の三船敏郎
出典:Wikipedia

三船敏郎は国際的に有名な俳優で、多くの黒澤映画で主演を飾りました。2人の出会いは1946年。三船が東宝ニューフェイスのオーディションに参加した時の事です。三船は最初は不合格だったものの、黒澤の一存で補欠合格が決まります。

三船は1948年の黒澤作品・酔いどれ天使でヤクザ役を演じて注目されます。それ以降、三船は15本もの黒澤作品で主演を飾りました。「用心棒」と「赤ひげ」ではヴェネチア国際映画祭の男優賞を受賞しています。

互いを敬愛する黒澤と三船でしたが、黒澤は無茶な事もしています。1957年の「蜘蛛巣城」では、撮影の過程で三船に30本もの弓矢を実際に撃っており、三船は死にかけています。後に酔った三船がその事に立腹して、家に怒鳴り込んだ事もありました。

そんな三船も1965年の「赤ひげ」を最後に黒澤作品に登場する事はなくなります。理由は未だにはっきりと分かっていません。ただ黒澤は生涯、三船を尊敬しました。三船が亡くなった時にこのように述べています。

三船という役者がいたからこそ、私の映画も成功を治めることができた

この賛辞のわずか9ヶ月後、黒澤もこの世を去りました。

逸話3「映画界の食通?月の食費が100万円を超える」

黒澤は肉を愛した
出典:Wikipedia

黒澤は映画界の食通で、特に牛肉料理が大好きでした。黒澤家に行けば美味しい肉料理が食べられると噂になっていたそうです。一説では牛肉代だけで月の食費は100万円を超えており、税務署に脱税を疑われる事もありました。

更に黒澤はスタッフの食事に気を配り、愛妻・陽子が全員分の弁当を作った事もあったとされます。夏にはかき氷の屋台を呼び、夜は毎日のように宴会も開かれていたのです。

黒澤は「うまいもののわからないやつは想像力に欠ける」と述べました。食とは自分の身体に取り込むものです。美味しいものを食べた時の感動や五感は自分の人生経験となり、新たな想像を生み出すのです。

黒澤は日々美味しいものを食べて、多くの名作を作り上げていきました。

黒澤明の生涯年表

1910〜1926年 – 0〜16歳「黒澤明誕生」

黒澤は西部劇を愛した
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黒澤明誕生

黒澤は1910年に東京府荏原郡大井町(現・新宿区)で、父・勇と母・シマの4男4女の末っ子として生まれます。勇は陸軍戸山学校の教官を務めるなど、厳格な父親でした。ただ当時は教育上良くないとされる映画に理解があり、西部劇などを良く見ていたそうです。

小学校の頃の黒澤はいじめられっ子でしたが、担任教師・立川先生の「個性を伸ばす教育」により絵の才能を開花させます。絵に自信を持った黒澤は徐々に成績が伸び、クラスの中心的な存在となったのです。

読書を嗜む

1922年に黒澤は小学校を首席で卒業。中学校時代にはロシア文学や日本文学を読み、文学的な素養を身につけていきます。作文が学友会誌に掲載される等、作文の才能も開花させていきました。

1927〜1935年 – 17〜25歳「画家や非合法活動に身を投じる」

黒澤はゴッホを敬愛した
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画家を志す

中学校時代に黒澤は画家を志し、前述した通り1927年に川端画学校に進学します。この学校は戦前に多く著名な画家を輩出しました。学校を卒業した黒澤は社会に不満を持ち、1930年頃から非合法活動に身を投じていきます。

黒澤は無産者新聞の下部組織で、街頭連絡員を務めていた事もありました。ただ元来共産主義者ではなかった黒澤は運動への弾圧が激しくなる中で、活動から身を引いていきます。

跡取りとなる

黒澤は4男の末っ子でしたが、1933年の時点で長兄も次兄もこの世を去ります。唯一の黒澤家の男子となった黒澤は跡取りとなりました。結果的にブラブラする事が出来なくなった黒澤は就職活動を始めました。

なお、この時代は徴兵制度がありました。しかし徴兵司令官は父の教え子だった事もあり、兵役免除を受けています。結果的に終戦を迎えるまで、黒澤は徴兵される事はありませんでした。

1936〜1945年 – 26〜35歳「監督デビュー」

黒澤を育てた山本嘉次郎監督
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助監督になる

黒澤は1936年にP.C.L.映画製作所に入社。同社は翌年に東宝と合併されています。矢倉茂雄監督の「処女花園」で初めて映画の制作に携わります。その後は山本嘉次郎監督の「エノケンの千万長者助」に関与。黒澤は山本から様々なノウハウを学んでいきました。

助監督を務め続ける中、山本は黒澤に「監督になるにはシナリオを書け」とアドバイスを受けます。黒澤は1942年に情報局賞を受賞する等、徐々に頭角を表していきました。

姿三四郎を監督する

姿三四郎のポスター
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脚本を通じて監督として映画に携わりたいと考えたものの、当時は太平洋戦争の真っ只中。多くの作品が検閲に引っかかり、処女作品の監督は難航します。黒澤は富田常雄の柔道小説「姿三四郎」の広告文をみて、ヒットを確信。映画化を東宝に実現させました。

黒澤が監督した姿三四郎は1943年に放映。この頃から技法やカメラワークは確立しており、国民映画賞奨励賞が受賞される等、黒澤は周囲の期待を一身に受けました。

翌年には2作目の作品「一番美しく」が放映。黒澤は作品で主演を飾った矢口陽子と恋に落ちています。1945年3月に結婚式を挙げ、その後も撮影に臨むものの、当時は敗戦間近の状況下。撮影は困難を極めていたのです。

1945〜1954年 – 35〜44歳「監督として頭角を表す」

羅生門の復元模型
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撮影の再開

8月15日に日本が敗戦を迎えると、本格的に映画監督の仕事を再開します。12月には黒澤が脚本を書いた戯曲「喋る」が有明座で上演。翌年には「わが青春に悔なし」を監督しました。

やがて1948年の「酔いどれ天使」がキネマ旬報ベスト・テンで1位に選ばれ、黒澤は国内での注目を集めていきます。

羅生門の監督

この頃の東宝は全国的に広がった労働争議の影響で、混乱状態にありました。黒澤は1948年の暮れに東宝を離れ、自分が設立した映画芸術協会を足場にして他社で映画製作を始めます。

1950年に大映で監督した「羅生門」は、翌年にはヴェネツィア国際映画祭で金獅子賞を受賞。1952年には東宝に戻り「生きる」を、1954年には「七人の侍」を監督します。

これらの作品は黒澤は国際的に高い評価を受け「世界のクロサワ」と称されるようになるのです。

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