黒澤明の生涯・作品まとめ【息子や孫、名言も簡単に紹介】

1955〜1965年 – 45〜55歳「黒澤プロダクションを設立する」

黒澤と苦楽を共にしたスタッフ達
出典:Wikipedia

黒澤プロダクションを発足

数々のヒットを飛ばす黒澤ですが、それは莫大な予算や時間を割いて作られたものでした。東宝では黒澤作品だけ高額な予算が回される事への不満も発生します。

そんな経緯もあり東宝と黒澤は、1959年4月に「黒澤プロダクション」を東方の本社に設立します。これは映画に必要な資金を黒澤と東方で折半する代わりに、利益を分配する共存共栄的な事業所です。

プロダクションの設立により、黒澤は映画製作の自由を手に入れますが、同時に興行が振るわなかった時のリスクも考える必要が出てきたのです。

予算に妥協を許さなくなる

プロダクション設立後、黒澤は5本の映画を製作し、その都度、興行収入記録を更新します。特に1965年の「赤ひげ」は大ヒットを飛ばしました。

しかし良い映画を作るたびに予算も増加の一途を辿ります。東方との利益配分だと、黒澤は映画を作るごとに借金が増えて損をするようになっていたのです。悩んだ黒澤が行き着いたのは「独立」でした。

1966〜1971年 – 56〜61歳「天才ゆえの孤独と挫折」

東京プリンスホテル
出典:Wikipedia

様々な企画が頓挫

1966年に黒澤は東宝との専属契約を解消して完全独立。黒澤プロダクションは東宝ではなく、東京プリンスホテル4階に事務所を移転しました。ただこの頃の黒澤は権威的な存在に見られ、これらの行動も批判的に見られています。

その後はアメリカのプロダクションと「暴走機関車」や「トラ・トラ・トラ!」などの共同製作が始まりました。ただ黒澤が製作に妥協できない事、意思疎通の難しさの為に製作は途中で頓挫します。

1969年には名監督と評される木下惠介、市川崑、小林正樹らと「四騎の会」を結成。日本の映画業界を盛り上げる為、4人の共同製作となる「どら平太」の企画が持ち上がりますが、これも頓挫します。

自殺未遂を図る

1970年には黒澤の単独作品「どですかでん」を発表。この作品は自宅を担保に資金を調達したものですが、興行的には振るわず、更なる借金を背負います。そんな黒澤は1971年12月22日早朝に、自宅の風呂場で首と手首を切って自殺未遂を図りました。

1972〜1980年 – 62〜70歳「復活を遂げる」

ソ連との共同企画

1973年に黒澤はソ連の映画会社・モスフィルムとの共同製作を宣言。黒澤は1年かけて過酷な寒冷地での撮影を断行し、1975年にデルス・ウザーラを発表します。この作品は第48回アカデミー賞で外国語映画賞を受賞し、黒澤は見事なる復帰を遂げました。

アメリカの旅行で得たもの

1978年に黒澤はイタリアのダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞の副賞でアメリカに旅行します。アメリカでも黒澤を尊敬する人は多く、ジョージ・ルーカスなどと親交を深めました。

この頃の黒澤は「影武者」の製作に向けた資金繰りをしていましたが、あまりうまくいっていません。ルーカスは20世紀フォックスというアメリカのスタジオとのパイプを駆使し、資金調達を約束します。

1980年に満を持して影武者が放映されました。この左首は当時の日本映画の過去最高記録となる27億円の配給収入を記録。30年を経ても黒澤の監督としての技量は衰えていませんでした。

1981〜1985年 – 71〜75歳「復活を遂げる」

現在の黒澤フィルム・スタジオ
出典:本牧 Style 黒澤フィルム・スタジオ

乱の製作

影武者の成功に伴い、黒澤は「乱」の製作に着手。こちらはフランスの映画製作者であるセルジュ・シルベルマンの協力で資金の目処が立ち、1985年に放映されます。

この間の1983年に黒澤は「黒澤フィルム・スタジオ」という自前のスタジオを開設。乱の撮影でも大いに使用されています。乱の製作費は当時では巨額の26億円だったものの興行収入は16億円。黒澤はむしろ巨額の赤字を抱え込む事になります。

ただ乱の国内外の評価は国際的に高く、第58回アカデミー賞では4部門にノミネートされました。

1986〜1993年 – 76〜83歳「まあだだよの製作」

晩年の作風

80歳を過ぎても黒澤は名作を作り続けます。1990年には自分が見た夢をもとに作り上げた「夢」を製作。1993年には内田百閒の師弟愛を描いた「まあだだよ」を製作しました。

晩年の黒澤の作風は家族や師弟に触れたものが多く、自伝的なものが増えていきます。まあだだよが放映された時の黒澤の年齢は83歳。周囲から「これが最後の作品ですか?」と聞かれた時、黒澤は「まあだだよ」と冗談交じりに答えています。

ただ結果的にこの作品が黒澤の最後の監督作品となりました。

脚本の断念

黒澤は山本周五郎の作品「雨あがる」の脚本を執筆するものの、1995年3月に京都の旅館で転倒して骨折します。今後は車椅子生活となり、脚本も諦めます。

ただその後も映像に対する熱意は冷めやらず、1997年には「自分の絵コンテをCGでアニメーション化して、それをCMに活用する」など、幅広い活躍を続けました。

1984〜1998年 – 84〜88歳「黒澤明死去」

黒澤明死去
出典:Wikipedia

黒澤明死去

精力的に活動を続けた黒澤ですが、1998年9月6日に脳卒中により88歳で死去します。13日はお別れ会が開かれ、国内外の名だたる監督や俳優、3万5000人が参加。黒澤の死は世界各地でトップ級のニュースとして報道されたのです。

1 2 3 4 5 6 7

コメントを残す