日航機墜落事故の生存者とその後
多くの犠牲者を出した日航機墜落事故ですが、奇跡的に助かった人たちもいます。彼女達は皆、損傷の少なかった機体後部の乗員でした。
ここからは、日航機墜落事故の生存者のその後を解説します。
- 吉崎博子さんと吉崎美紀子さん
- 落合由美さん
- 川上慶さん
吉崎博子さんと吉崎美紀子さん
吉崎博子さんと吉崎美紀子さんは親子であり、当時34歳と8歳でした。家族5人で搭乗していたものの、生き残ったのは2人だけです。博子さんは頭部、顔面挫創、肋骨骨折の重傷。美紀子さんは両下肢骨折、全身打撲顔面挫創の重傷を負っています。
救出当時、美紀子さんの脈は弱くなっていましたが、2人とも後遺症もなく回復。事故当時の状況を2人で話す様子が残されています。事故当時は、まだたくさんの人の声がした事、暗闇の中でヘリコプターのサーチライトが光っていた事を語っています。
2人のその後については詳しくは分かりません。事故を経て2人は、東京都内にある博子さんの母方の実家で暮らすようになりました。現在の様子は詳しくわかりませんが、今もきっと元気に暮らしている事でしょう。
落合由美さん
落合由美さんは当時26歳で、日本航空の客室乗務員でした。乗務員としてではなく、プライベートで乗り合わせていたようです。彼女もまた顔面挫創、左上腕前腕骨折、全身打撲の重傷。残骸に挟まれ、右手だけを出して手を振っていたところを発見されています。
病室で落合さんは旦那さんと父親と再会。新婚だったとの事で、旦那さんは安堵したのではないでしょうか。また落合さんは、事故直前の機内の様子や墜落状況、救助の様子を詳細に残しています。客室乗務員としての立場上、この証言は貴重なものとなりました。
落合さんは事故後も日本航空事故関連の仕事を続け、後に定年退職しました。2人の娘も授かっており、現在は大阪府内で主婦として暮らしています。ただ近親者は全ての取材を断っており、現在の様子はわかりません。
川上慶子さん
川上慶子さんは当時12歳で、北海道に家族旅行をする為に123便に搭乗していました。事故当時、父親と妹は会話できる程に意識があったものの、後に息絶えてしまいます。彼女は右手首、左下肢挫創、全身打撲の重傷を負うものの、生き延びる事ができました。
ただ川上さんがあまりに美人だった事もあり、マスコミはこぞって川上さんを追いかける事になります。病院では、白衣を着て医師になりすまして取材を求める者、病室の窓から侵入する者もいて、酷い状況でした。
川上さんの両親と妹は事故で亡くなったものの、兄は部活で旅行に出掛けておらず、難を逃れています。2人は祖母のいる島根県に身を寄せました。その後もストーカーまがいの取材は続き、PTSDの症状も出ています。
ただ川上さんはPTSDを克服。保健師をしていた母の意志を継ぎ、看護師となりました。1995年の阪神淡路大震災では、看護師として多くの人達の看護にあたります。2002年にアメリカ人男性と結婚し、3人の息子にも恵まれました。
生存者が取材に答えない理由
事故直後はメディアの取材に答えていた生存者たちですが、現在は誰も取材に応じていません。2015年には川上慶子さんの兄が取材に応じたものの、本人が取材に応じる事はありませんでした。
仮に日航機墜落事故の生存者たちが、本当に殺されたとするならば、彼女達は事故現場で起きた事を知っているのかもしれません。実際に生存者達は、最初にヘリコプターが事故現場を訪れたにもかかわらず、その場から去った事を口にしています。
ただ事故から40年近くが経過しても、トラウマは一生残り続けるもの。川上さんのように、ストーカーまがいの取材に疲れてしまうのも頷けます。彼女達が取材に応じないのは陰謀論ではなく、事故を思い出したくないという事が大きいのではないでしょうか。
沈まぬ太陽の主人公にモデルがいることは、公開された事実なのに真相不明とは。山崎豊子氏というメジャーな作家の作品なのに、著者名さえ提示されていない。
酷すぎる内容
火炎放射器としたらどこから持って来たのでしょう。装備したのはどこの駐屯地でしょう。
火炎放射器はどこから持って来たのでしょう。
タイトルと中身が全く一致してない酷い釣り記事やな
内容も杜撰で何が言いたいのか見えてこないですね
おそらくは日航機事故に関心があるのではなく
記事を作るネタとして日航機事故を選んだだけかなと