黒澤明は、1940年代から90年代にわたり数々の名作を生み出した映画監督です。世界でも日本を代表する映画監督として知られ、「世界のクロサワ」と称されていますね。登場人物の内面を掘り下げた脚本や迫力ある映像技術の発明は、映画史に多大なる影響を与えました。
そんな黒澤明ですが、読者の中には「監督をやっていたことくらいしか知らない…」なんて方もいますよね。話題になった映画を見たことはあっても、黒澤明の性格や手掛けた作品の数々を詳しく知らない方は多いはず。
そこで今回は、黒澤明の生涯を代表作品や名言、子孫の存在も交えて紹介します。黒澤明の映画に対する熱意に魅了された著者と共に、黒澤明の知られざる一面に迫っていきましょう。
この記事を書いた人
Webライター
Webライター、吉本大輝(よしもとだいき)。幕末の日本を描いた名作「風雲児たち」に夢中になり、日本史全般へ興味を持つ。日本史の研究歴は16年で、これまで80本以上の歴史にまつわる記事を執筆。現在は本業や育児の傍ら、週2冊のペースで歴史の本を読みつつ、歴史メディアのライターや歴史系YouTubeの構成者として活動中。
黒澤明とは?生涯をダイジェスト
名前 | 黒澤明 |
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誕生日 | 1910年3月23日 |
没日 | 1998年9月6日 |
生地 | 東京府荏原郡大井町 (現在の品川区) |
没地 | 東京都世田谷区成城 |
配偶者 | 矢口陽子 |
埋葬場所 | 安養院(鎌倉市) |
- 1910年 0歳 黒澤明誕生
- 1927年 17歳 川端画学校に進学
- 1934年 24歳 長兄達が死没し、黒澤家の跡取りとなる
- 1936年 26歳 P.C.L.映画製作所(翌年に東宝に合併)に入社
- 1943年 33歳 初の監督作品・姿三四郎が放映
- 1944年 34歳 矢口陽子と結婚
- 1950年 40歳 羅生門を監督し、世界的に評価を受ける
- 1959年 59歳 黒澤プロダクションを設立
- 1971年 61歳 自殺未遂を図る
- 1983年 71歳 黒澤フィルム・スタジオを開設
- 1998年 88歳 死去
黒澤明の経歴や性格、家族構成
日本が誇る映画監督
黒澤は戦後の日本映画を代表する映画監督です。生涯に監督した作品は30本で、どれもが高く評価されています。黒澤は映画の中にヒューマニズム(善や心理の根拠は、神ではなく人間の中にある)という考えを取り入れ、人間の本質を追求しました。
彼の作品は世界的に評価されています。アカデミー賞の他にも、カンヌ、ベネチア、ベルリンの国際映画祭の全てで賞を受賞。1996年にエンターテインメント・ウィークリー誌が発表した「50人の偉大な映画監督」というランキングでは6位になっています。
黒澤が没した1ヶ月後の1998年10月1日には映画監督としては初となる「国民栄誉賞」を受賞。2007年にTotal Film誌が発表した「100人の偉大な映画監督」で11位にランクインしています。没後もその尊敬は止む事はありませんでした。
彼が映画で表現した技法やヒューマニズムは、後世の映画監督にも多大なる影響を与えました。私達が大好きな映画にも黒澤の影響は確実に反映されていると言えるのです。
一切の妥協を許さない!撮影にまつわる強烈なエピソード
黒澤は映画の完成度を極限まで高める為、一切の妥協を許しませんでした。役作りの為に撮影期間より長いリハーサルを組み、家族を演じる俳優同士を一緒に住まわせる等、とにかく「俳優がその役になりきる事」を重視したのです。
黒澤の撮影に対する熱意は物凄く、強烈なエピソードが数多く残されています。
- 撮影の邪魔になった線路沿いの家を壊し、撮影後に元に戻す
- カメラの前を人が横切る場面の撮影に1日を費やす
- 本物の弓矢を主演の三船敏郎に射る
- 嵐の場面を撮影する為、台風の中で撮影を行う
これ程までにこだわり抜いた撮影ですが、黒澤は「撮影は素材集めに過ぎない。最終的な生命を与えるのは編集である」と述べています。編集は他人に任せずに自分で行い、映画音楽にも強いこだわりを見せました。
完璧主義者の黒澤ですが、私生活では寂しがり屋の話し好きでした。映画は黒澤だけではなく、俳優や裏方などの多くの人達の連携があって成り立ちます。黒澤の「こだわり」は皆を信頼していたからこそ、達成できたものと言えるでしょう。