アメリカ南北戦争をわかりやすく解説!原因や死者数、与えた影響も紹介

「南北戦争ってどんな争いだったの?」
「戦争の原因は何だったの?」

この記事を訪れた皆さんは、このような疑問を抱いていませんか?

南北戦争(英訳:American Civil War)とは、1861年に起きたアメリカの内戦です。奴隷制度が廃止されるきっかけとなった戦争であり、当時のアメリカ大統領リンカーンの有名な演説でも知られていますね。

南北戦争の様子

南北戦争は「奴隷の解放」だけではなく、産業革命や労働環境の変化など多くの要因が絡み合って起こりました。それゆえに、南北戦争の全体像を理解したくても複雑で難しいと悩んでいる人も多いはず。

この記事では、アメリカで起きた南北戦争を原因、死者数や世界に与えた影響なども交えてわかりやすく解説します。この記事を読めば、南北戦争を網羅的に理解することができますよ。

この記事を書いた人

Webライター

岩野 祐里

Webライター、岩野祐里(いわのゆり)。5歳の頃、イギリス史に夢中になり図書館へ通いながら育つ。大学では国際文化を専攻し、イギリス史と英文学の研究に没頭。その後、大学院にて修士課程を修了。研究論文は「19世紀英国の社会と犯罪」について。歴史全般の研究歴は11年、イギリス史は21年に及ぶ。現在はWebライターとして活動中。

南北戦争とは

争った期間
1861年4月12日〜1865年4月9日
争った勢力
アメリカ合衆国
(北部)
アメリカ連合国
(南部)
指揮官
エイブラハム・
リンカーン
(アメリカ合衆国の
大統領)
ジェファーソン・
デイヴィス
(アメリカ連合国*の
大統領)
兵力
約2200万人
(海軍:69万8000人)
約900万
(海軍:36万人)
犠牲者の数
36万5000人
(負傷者:28万2000人)
29万人
(負傷者:13万7000人)

アメリカ連合国

1861年から1865年までにアメリカ南部地域の州で形成されていた国家。奴隷制度に反対していたリンカーン大統領の当選を機にアメリカ合衆国から分離する形で成立した。
ジェファーソンが大統領となったが、南北戦争で北部のアメリカ合衆国が勝利したため、大統領もアメリカ連合国も1865年に消滅している。

南北戦争をわかりやすく説明すると…

南北戦争とは、1861年から1865年にかけて起こったアメリカの内戦です。きっかけは、国の貿易制度と奴隷制度を巡ってアメリカの南部と北部が対立したことにあります。

農業経済を維持したい南部は自由貿易と奴隷制度の存続を望み、商工業による工業経済を進めたい北部は保護貿易と奴隷制度の廃止を望んでいました。

南北戦争はアメリカ社会を大きく変える戦争だった

多くの死傷者を出しながらも、最終的にはリンカーン大統領率いる北部側が勝利。黒人奴隷たちは解放され、アメリカは更なる工業発展を遂げて大国へと成長したのです。

*自由貿易と保護貿易

・自由貿易
国家が輸出入に対して関税などの規制をしない貿易。
・保護貿易
国内産業の発展を促すために保護関税などを課す貿易。

南部と北部の違い

南部北部
経済体制プランテーション
農業
(モノカルチャー
経済*)
商工業
(資本主義経済)
貿易体制自由貿易保護貿易
奴隷制度に
対する見解
賛成反対
連邦制度に
対する見解
反対
(分離的な独立
を目指す)
賛成
(国家の統一
を目指す)

南北戦争当時のアメリカ南部とアメリカ北部には、政治から経済にいたるまで様々な違いが見受けられます。

痛々しい傷を持つ黒人奴隷
出典:Wikiwand

南部では綿花を栽培する農業が経済の中心であり、関税を必要としない自由貿易による綿花の輸出で社会が成り立っていました。特に、当時はイギリスの産業革命が加速しており、綿工業の原材料である綿花は主要な輸出品だったのです。そして、綿花農園の労働力は大半が黒人奴隷だったため、南部は奴隷制度を強く支持しました。

特に北部のミシシッピー州は工業が盛んだった

一方で北部は産業革命ならび米英戦争*の影響を受けて、アメリカ国内における工業化が急速に拡大。商工業を発展するために保護貿易を促し、奴隷制度ではなく賃金労働体制を支持します。そして、奴隷制度を禁じた州「自由州」までも作り上げていきました。

農業と工業、自由貿易と保護貿易、奴隷と非奴隷。あらゆる点において違いが浮き彫りとなった南北は、内戦の一途を辿るほかなかったのでしょう。

*米英戦争

1812年から1815年にかけて行われたアメリカとイギリスの戦争。この戦争によりイギリス産の工業製品が途絶えたため、アメリカは自国での工業生産に躍起なった。

*モノカルチャー経済

特定の農作物のみを輸出向けに生産する偏った経済のこと。
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